猪木武徳「経済社会の安定性と厚生の尺度を再考する」

 最近、忙しいのでネットで話題になっているGDP論争もスルーパスしていましたが、今日、たまたま読んだ本の中に関係する展望があったのでご紹介。日本経済学会の会員には既知なんでしょうね(それにしてはネットではほとんど誰も触れてないのはどうして?)。僕は所属してませんので今気がつきました。しかし猪木先生の展望は非常にわかりやすいです。

 論文の後半部にGDP概念の再考が含まれているのですが、従来の経済厚生の指標としてのGDPの概念と測定をめぐる議論を主に3つの観点から整理しています。

1 消費と投資を足し合わせるGDP概念は、その根本的な意味は?

 ここはネット的にたぶん最も論争になっている点ではないかと推測します。

 経済厚生は最終的には消費(スミス以来の伝統的立場)。では投資はどう扱うのか? 
 斉藤誠氏の『成長神話の桎梏』を参照して、猪木氏は「例えば、超低金利の下では、日本のバブル期における不良な投資プロジェクトへの貸出や、無駄な公共投資が多くなされたといわれるが、こうした民間設備投資や公共事業は国民のwell-beingにつながらない」と指摘しています。
 またこの問題は、ミクロ的な基礎とも繋がっている、と猪木氏はシェリングの議論を援用して議論を広げていきます。自己selfが確定した単体としてあり、この自己が感じるutilityが一意的に確定・測定されるというのが前提。「しかし、例えば時間を隔てて、経済行為の主体が別のself(例えば、今日の私と、明日の私というように)に支配されるとすれば、utilityという概念は不確かになる」と指摘。これは意図したことのwelfareと結果のwelfareの問題ともいえる。

 (猪木氏の記述ではないが)例えばマクロに再びつなげると、無駄な公共事業も当初はなんらかのwelfareへの貢献を意図したのかもしれない(当面の雇用など)、しかし結果のwelfareをも保証するとはかぎらない(赤字垂れ流しで誰も利用しない施設など)。

2 データとしての集計量が持つaccuracyの問題

 モルゲンシュテルンの古典的な本から引用して、計測の限界を指摘。猪木論文では立ち入って議論しているとはいえないので、このモルゲンシュテルンの本などを読むといいのかもしれない。

3 GDPと補完的な厚生指標と心理学

 所得を基準にするGDPだけではなく、それを補完するものとして、「幸福」「自己宣告の満足」「主観的well-being」などに基づく経済指標を重視する必要がある。例えばよく知られている事実ですが(最近反論もあったようですけども)、一人当たりの所得と「幸福感」には明確な相関が存在しない。このときの「幸福感」がどんな要因によって規定されているのか、その分析が重要な意味を持ってくる。もちろんこの種の「幸福感」にはバイアスが存在するだろう(猪木先生があげていたわけではないですが、例えば老人は若い人よりも妙に幸福感を得る存在だという実証もありました)。猪木氏はアマルティア・センの考えを紹介して、貧者のcapabilityの欠如ゆえに選択はかぎられた情報しか与えないので、むしろ直接表明された選好で構成されたwell-beingの基準を考慮する必要がある、と指摘している。

 猪木論文の前半はネグりましたが、論文の最後には、アリストテレスの言葉をひいて、いわば合理主義というか厳密さの行き過ぎに警告をしてますね。つまりGDP自体は有意義ではあるが、それでも「幸福感」との関係、知性との関係としてそのGDP指標が表すwelfareが安定した評価を現状では得ていない。しかし他方でこれらの諸関係を厳密化したり精緻化したりすることはかえって問題をうまく捉えたとはいいがいたい。猪木氏は最後にデカルトヴィーコの対比を示唆していますが、これは学問における大雑把な議論で大問題を扱う姿勢、議論におけるレトリックの重要性を示唆しているともとれるかもしれません。

現代経済学の潮流2008

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