山崎元MAX!!(郵政民営化と政府ファンドSWFに共通する奇怪な発想とぼったくる手)


 最近、本当に妙な流れになっていて、それはまさに見えざる手というよりもぼったくる手と表現していいものである。この政府のぼったくる手をマクロ経済的な見地から批判したのが、『世界』の大瀧雅之論文であったし、ミクロ的には昨日の『読売新聞』での山崎元さんのコメントであった。私は山崎コメントを群馬の蕎麦屋で読みながら、我が意を得たり、と力うどんを食べながらひとり力んだのである(笑)


 私は政府が一国の資金の流れを自らの意図通りに動かそうというイデオロギーを、郵政民営化のときから批判してきた。『経済政策を歴史に学ぶ』の50頁以降やここでも、以下のように書いている。


「 しかし政府は民営化本来の目的(当該組織の非効率性の改善)を追求するというよりも、民営化主体の資産選択行動を政府の意図どおりに、市場化のなかで実効させようという錯乱した方式で行うつもりのようである。民営化はするが、政府の都合どおりに資産運用を行ってほしいというのは、この政権の奇怪な発想を端的に表しているだろう」。この文章の前後も参照されたい。


 この「奇怪な発想」は先の大瀧論文の指摘と同じであり、それを山崎元さんが政府ファンド(SWF)という視点から批判していると私は理解している。以下は山崎ロバブログからの引用であり、全面的に支持したい。まさに山崎元さんの本領発揮!


:日本版国家ファンドに関する、現在の私の大まかな立論は以下の通りです。

(1)国民は国に本来自分達の資産を運用して貰う必要がない。国家ファンドの運用資金があれば国民に返すべきであり(「民間で出来ることは民間で」)、政府のバランスシート圧縮こそが必要だ。

(2)国家ファンドが正当化しうるのは、国家ファンドの形で運用すると民間が運用するよりも運用が上手く行くという確度の高い期待が持てる場合だけだが、実際には、国が国民に対して責任を負って運用するというスキームは、通常の運用よりも不利だ。
 たとえば、運用計画を策定し国民の承認を得なければならない手続き面は運用に不利だし(説明責任や情報管理は完全なクリアが難しい問題だ)、全体の運用計画を誰が作るか(パフォーマンスの太宗は資産配分段階で決まる)、運用者を誰がどうやって選ぶか(マネージャー・ストラクチャーの問題。素人がプロを評価し選択するという「飛躍」が必ず介在する)、という重要問題をどうクリアするかが難しいし、政府の民間への介入を避けることが運用の制約になるし(たとえば議決権を有効に使えない)、そもそも巨額の資金の運用は簡単ではない。

(3)上記にかかわらず国家ファンドを強行しても、運用業者を喜ばせるだけだろう。国家ファンドは大きなカモになる。加えて、不健全な利権の源にもなりかねない。(これは私の推測ですが、現実的な心配だと思います):


 まさにここに表現されているのは、見えざる手ではなく、政府の「ぼったくる手」ではないのか。