ハイエクでもなくハーバーマスでもないけど、やっぱりウィキノミクス?


 5年以上前に作成した田中版「ネットの経済学」(掲示板時代のネットの経済学)のその続きの準備といってはなんですが、やはりブログの中でどう経済問題が議論されているのか、そしてそもそもブログ自体の経済的考察にはどんなものがあるのか、ここ数日いろいろ資料を集めているわけです。ブログ自体の経済的考察というのはそれほど豊富ではありませんで、『Public Choice』が今年度の第一号で特集を組んでいてその中にいくつか面白そうな論文があります(入手できてません)。


 特に個人的な関心を抱いたのが以下のキャス・サンスティーン教授の論文
Neither Hayek nor Habermas
http://www.springerlink.com/content/b8167107l4662l47/?p=8bbcf017ea9d4fcb9dc0f27f6d0ed614&pi=5


Abstract The rise of the blogosphere raises important questions about the elicitation and aggregation of information, and about democracy itself. Do blogs allow people to check information and correct errors? Can we understand the blogosphere as operating as a kind of marketplace for information along Hayekian terms? Or is it a vast public meeting of the kind that Jurgen Habermas describes? In this article, I argue that the blogosphere cannot be understood as a Hayekian means for gathering dispersed knowledge because it lacks any equivalent of the price system. I also argue that forces of polarization characterize the blogosphere as they do other social interactions, making it an unlikely venue for Habermasian deliberation, and perhaps leading to the creation of information cocoons. I conclude by briefly canvassing partial responses to the problem of polarization.


 で、この論文の要旨を日本語にしたようなものがレッシグのブログに存在しています。

http://japan.cnet.com/blog/lessig/2005/07/22/entry__vs_1/

 上のリンクにあるキャス・サンスティーン教授の他のブログエントリーも必読ですね。


 キャス・サンスティーン教授の議論を大雑把にまとめると


 議論がまともになったり、知識の集約にブログ(圏)は役だつのか? という問いに対して、ブログ(圏)を以下のアナロジーとしてまずはとらえます。


 ハイエク流の価格(断片化された知識を集約して、情報伝達を行う機構)としてブログ圏をとらえる →ブログ圏には価格に当たるものがない。
 「ブログ圏を価格システムに近いハイエク的仕組みとするPosnerの見方は間違いだとわたしは思う。ブログ圏は価格を決定しない。分散情報を集約する巨大wikiを生みもしない。かわりにブログ圏が提供するのは、主張・観点・ぼやき・洞察・嘘・事実・誤報・道理と無理のおどろくほど多様な広がりだ。Hugh Hewittは近著Blog において、マスメディアのような強力なアクターに説明責任を持たせるブログの力を讃えている。これについてHewittは正しいし、ブログ圏によって散在情報が表に出る確率が高まったことももちろん真実だ。しかし、価格システムとの無理のないアナロジーが成り立つとは思えない。」
 さらにカスケードの存在によってハイエク的なメカニズムを体現しているような予見市場は失敗しているので、ブログ圏が知識の集約に必ず役だつとはちょっといえない。


 ハーバーマス流の討議民主主義はどうか?→「集団分極化(Polarization)はたとえ正当な根拠がないときでさえ先鋭的な意見を生みだしてしまう。少数やただ一人の持つ情報は、集団の最終的な決断にほとんど、あるいはまったく影響を与えないことが多い。情報のカスケードが討議を望ましくない方向に導くこともある。さらに人々は自分の評判を気にするため、自分の知ることが真実であり重要だと分かっていても沈黙を守るかもしれない」。


 それでもキャス・サンスティーン教授はwikiが現状においてまあまあ成功しているのは認めていて、その理由は以下のような危ういものと彼は見做しているようです

Wikipediaはまさに分散情報の集約をおこなっている――それも驚くほどに。広い意味で、これは間違いなくハイエク的プロセスだ。だがWikipediaと価格システムには少なくとも二つの違いがある。まず、Wikipediaは経済的インセンティブに基づいていない。人々は品物や金銭のために参加するのではないし、取引もない。次に、Wikipediaは基本的に「後手必勝」のルールで動いている。最後の編集者、すなわち一人の人間が大きな力を持つ。ところが価格システムでは、最後の購入者は普通大きな影響力を持つことはできない(もしあなたがラリーの著書をそれぞれ一万部ずつ買ったとしても、本の価格を変えることにはならないだろう)。つまりWikipediaは、分散した情報を独特の、比較的信頼性の低い方法で集約する点で価格システムと異なる。

ただし書きが二つ。1) いずれにしろWikipediaは機能する。すくなくともほとんどの部分では。 2) 価格システムも、ときに野火のように拡がる誤情報が暴騰・暴落を招くという意味では常に機能するとは言えない(だから行動経済学者が示したように、ハイエクはあまりに楽天的すぎたといえる)。」


最近のwikiへの評価は下の論説で読めます。

A Brave New Wikiworld


 日本で先駆的に以上の議論に注目したのはfacta阿部重夫さん。

別の顔のハイエク1――ウィキペディアと市場

別の顔のハイエク2――無知の発見

別の顔のハイエク3――ブラックボックスの効用


 ところでハイエク的な価格が不存在だとして、それでもブログ圏あるいはwikiでまともな人(知識を集約したり議論をまっとうなものにする努力をしようとしたりする人たち)がかなりいるのも事実です。そしてそれ以上にそのまともな人にただ乗りしたり、煽ったり、ネット蝗になったりするような人たちがいる状況をどう説明していくか?


 ここらへんを考える上で必読だと思われる議論の方向は二つあるように思われます。この二つの流れはたぶんどこかで重なる。まだよく考えてない。一つはスティグリッツグロスマンパラドクスからみていく方向


 スティグリッツグロスマンパラドクスの本体の解説
Grossman, Sanford and Joseph Stiglitz :On the Impossibility of Informationally Efficient Markets  読書ノート 


 小島寛之氏の直観的な説明も参照「金融市場はなぜ情報的に不完全か」


 もう一つは、キャス・サンスティーンが示唆しているような「コンドルセの陪審定理」からみていく方策。以下の論文が参考になるかも。特に最後の東大の人のものが二つの流れの交錯についてコメントしているようなので後で読む。

 http://personal.lse.ac.uk/LIST/PDF-files/listgoodin.pdf
 http://www2.e.u-tokyo.ac.jp/~microbbl/PDF2004/sekiguchi.pdf


 ブログ圏をいまより少なくともまともなものにするには(政府規制をイデオロギー的に否定している点、独自すぎて僕には理解できないハイエク理解をお持ちなような点などを除けば)池田信夫氏のこの主張にも利があるようには思える(付記;BUNTENさんの池田氏への反論)。あと稲葉振一郎さんや山形浩生さんが『要するに』の本文や解説で書いた話も関連するんでしょう。もちろん僕の問題意識はここに発するわけで。そこらへんまだまとまってないので、ここで素材だけばーと書いた次第。

 
 ところで「討議民主主義」まわりの話をこちらでも僕は書いてますので参考まで。