賞味期限問題(山形浩生『サイゾー』『Voice』論説)


 山形さんが書いたからというわけでもないけれども、昨日、たまたま冷蔵庫にあったかぼちゃプリンをたべたら賞味期限切れのものだった。「11月17日賞味期限」と「12月17日賞味期限」があって前者をたべたのだが、うっかり17日が共通しているので捨てるのを家人全員が忘却してしまってたようだ。まあ、かぼちゃプリンの冷蔵庫管理は主に僕の責任なのでまさに自業自得なのだがw。それで一月を経過したものを食べた感想なのだが、我輩賞味を判別する能力を完全に喪失しているらしく、かなりおいしく食べてしまったのである。賞味期限切れのものを食べるのを推奨するつもりは毛頭ないので、ここをご覧のいい子たちは厨房含めて真似をしないほうがいいのはもちろんであるが。


 賞味を判別する能力を失っていることも、我輩のように功利主義者(帰結主義者)からすると、効用を高める効能がまれにではあるようである。つまり賞味を判別する能力を失っているので他者(政府や民間の組織)が与える賞味期限の表示が必要なのだ、という考えが成立する一方で、我輩の昨日の経験のように、賞味を判別する能力を失っている人には賞味期限の表示自体が意義をもたないこと(おいしく一月まえに賞味期限きれたカボチャプリンをぱくぱくたべておいしく思うこと)もありえるのだ、ということであろう*1


 このような我輩のような人間にとっては、賞味期限とはいったいどんな意味をもつのか? もし吾輩の存在が社会一般で普遍的なときに賞味期限表示は本当に厚生を改善するのか否か、山形論説はいつもながら我輩に、人間というか「我、思うゆえに、賞味期限あり」とでもいう深い思索を与えてくれるのである。


(付記)上のエントリーを書いてから寝床でしばし考えたが、賞味が判別できない(ただし食品が痛んでいたり食べられないものであることはわかる)人にとっては「賞味期限」表示は彼の生活水準をいささかも改善しない可能性が大きい。無知の解消による状況の改善にはならないからである。野球に関心のない人に野球の試合を講釈するのとほとんど同じ。


 賞味を判別できる人にとっての「賞味期限」表示は、この人が一々食品を賞味判別する取引費用を削減するだろう(もちろん試食の楽しみを同時に奪うかもしれない)。この取引費用の削減がこの賞味判別できる人の生活水準を改善する可能性がある。この人は野球に関心があるので野球の講釈が利益をもたらすのに似ている。


 つまり「賞味期限」表示は、賞味判別できない人にはほとんど意義がなく、賞味判別できる人にだけ経済的意義がある。


 この観点から昨今の「賞味期限」偽造問題を考えてみると、企業が消費者に無知を強要して被害を与えたという側面よりも(賞味判別できる人は賞味が落ちたことは自分でわかる、賞味判別できない人には影響はない)、賞味判別が独力でできる人の取引費用節約の効果を奪ったことに問題があるように思われる。


 (企業が法律を遵守していない、またモラル面での批判があるがそれを()に括ると)今般の「賞味期限」問題は、単に自分で賞味が判断する手間を個々の食品が増やしたということだけになる。

*1:しかもこの場合、あとで一月近く前の賞味期限切れであると認知した段階で、なぜかすでに五臓六腑にしみこんでいるにもかかわらず、その脳内かぼちゃプリンの「賞味」が急速に失われたような気がしたのである。これは賞味期限表示が結果として我輩の効用を著しく低下するのに貢献したことにもなる