川崎昌平『ネットカフェ難民』


 「ニート」の捏造に続き、ちまちました利権を得るために厚労省が頑張って音頭とってる「ネットカフェ難民」の話です*1。これは体験談なんでしょうか。最初の出だしから不思議な感じがしました。


 「ニートが目覚め」「ニートが」「ニートが」、となんか非常に奇妙です。例えば僕も80年代の終りに足掛け三年、いまの定義だとしっかりものの?「ニート」だったのですが、当時はそういう言葉はなかったので、せいぜい「田中は朝起きてみると自分が巨大な無職になっていたことを発見した」と「無職が目覚め」「無職が食事し」「無職」「無職」と書かなくてはいけないでしょうね。まあ、どうでもいいのですが、なんかこの人の日本語はべたついて嫌だなあ。


 それと東京芸大修士課程卒で、大したことない大学と二回も強調されてたんだけども(その大学がたいしたことないかどうかの客観的分析はさておき)なんか弁解ぽくでてくるのがこれまた奇妙な印象。現代のジャック・ロンドンという評価を好意的な人は与えるかもしれない。しかし全編読んだ感じは著者の質のいい文化的教養に裏打ちされた手堅い情感喚起型エッセイ(それ以上でも以下でもない。厳しくいえば中味に乏しい)。もし「ネットカフェ難民」について議論したい人には本書よりも門倉さん(『ワーキングプア』)や岩田先生(『現代の貧困』)らの本を新書では薦めたい。


 2週間の若い体力と精神力を酷使したわりのいいお仕事の成果(新書1万部だと印税74万円が基本 コストは2週間の宿泊代が基本、それに執筆に要した時間的コスト:たぶん2,3ヶ月か?)ということだろうか。その手際のよさは評価に値する。


 しかし少なくとも僕もたびたび利用するが、ネットカフェで寝泊りを持続するにはそれなりの体力がいると思う。僕みたいな体力に自信のない人は無理。いいかえると著者の実行した「ネットカフェ難民」体験は、僕には体力・気力ともに僕よりは数段レベルの高い人が可能なものにしか思えない。


 まあ、そういう「ネットカフェ難民」の(肉体・精神的)長期持続の不可能性を明らかにした、ということが本書の意義だといわれれば、納得するしかあるまい。

ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書)

ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書)


 次いでに読んだ同じ著者の『知識無用の芸術鑑賞』は、僕には好意的にいえば文章上手いかもねという感想だけ。否定的にいうとある年齢層以上にちゃんと面して誰かを教えたことがあるのだろうか? と素朴な疑問というか批判的な懐疑心を抱かざるをえない。文化を「与えられた」側を選んだ人たちに「創る」側の人間になるためのファーストステップを提供するということだが。本書全体がただの著者の気の利いた(それゆえ知識無用の人にはまねできない。だって文化格差がこんな新書一冊で解消できるならばとっくにそんな格差はないのではないか? ただ文化格差優位者である著者の知識提供にすぎない、となぜいえないのか?)エッセイ集であるにすぎない。


 と、ここまで書いて『ネットカフェ難民』の冒頭が家庭教師の経験だったことに思い当たる。僕と同じ批判だか感想だか著者の潜在的なリピドー?だかがあのエピソードを必要とさせたのだろう。少しわかった(家庭教師のエピソードがいささか唐突だったので。だって『ネットカフェ難民』には著者がこの二冊の本で強調したい文化格差、というよりも難民本の方は上にも書いてたけれども「ネットカフェ難民」には体力・精神力の格差での「富裕層」しか耐えられないという話だけで、文化格差はおまけだったもの)。


 (厚労省含めて 笑)うけのいい狙い(文化格差がたぶん著者の最もいいたいこと)と実際のエッセイの方向がかなりずれていて、僕にはひさしぶりに読む残念本二冊といえた。

*1:厚労省のちまちま関連http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/08/dl/h0828-1n.pdf厚労省は住居確保や就労支援に向けて約1億7000万円を来年度政府予算の概算要求に盛り込む。」と報道。http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070828AT1G2800D28082007.html