メールマガジン日本国の研究:原稿再録


 猪瀬直樹さんのホームページにも再録されてます。http://www.inose.gr.jp/mailmaga/mailshousai/2007/070405.html

 以下にも便宜を考えて再録しときます。

漂流か、上げ潮か:ブレトンウッズ2.0下の日本経済


●ブレトンウッズ2.0の世界

 日本のネット社会ではお馴染みの“WEB2.0”が次世代のインターネットのあり方を表現する言葉として流布しているが、それと同じように現在の先進国経済のあり方を表現する言葉として、“ブレトンウッズ2.0”というものがある。ブレトンウッズ体制は戦後のアメリカを中心とした国際経済体制を指して使われる言葉だが、今回のブレトンウッズ2.0(人によっては新ブレトンウッズ体制ともいう)は、梶谷懐神戸学院大学準教授が命名したものである。もちろん名前自体よりもその中身が重要だが、ブレトンウッズ2.0(新ブレトンウッズ体制)とは、アメリカ経済の総需要(主に消費)が世界の機関車となって、他の周辺各国(日本、ヨーロッパ、中国などの新興経済圏など)と相互依存的に発展していく姿を指している。この見解はラトガーズ大学のマイケル・ドゥーリー教授らが提唱したものである。この新しい世界経済の枠組みの顕著な特徴は、アメリカ経済の“双子の赤字”である経常収支赤字と財政赤字を、他の周辺諸国が“グローバル貯蓄過剰”という現象で支えているということである。これはアメリカの活発な消費需要に牽引されて周辺諸国の輸出産業が発展し、周辺諸国は輸出で得たマネーを今度はアメリカ経済のさまざまな資産の購入に向けて還流していく。アメリカの双子の赤字はこの還流した膨大なマネーで維持可能性を担保されている、というわけである。“グローバル貯蓄過剰”とは、またアメリカ経済の貯蓄不足・投資超過の状態を周辺各国から資金をファイナンスして維持していることを意味している。

● ブレトンウッズ2.0は維持不可能か?

 このようなアメリカ経済の双子の赤字は維持可能だろうか? いつかは急速なインフレで財政危機が生じ、ドルの信認が失墜して予想しない為替リスクが到来してしまうのか、などなどエコノミストの一部でもこの“グローバル貯蓄過剰”の状況に不安感を表明している。
 例えば悲観派の代表といえるニューヨーク大学のヌレル・ルビニ教授は、2月28日に上海市場の株式暴落を契機とした世界同時株安でも、サブプライムモーゲージ(信用度の低い貸し手への不動産融資)の返済遅延や債務不履行などの問題に代表される住宅不況問題が消費や投資に一層の悪影響を与えることが懸念されて、世界同時株安に至ったと分析している。ルビニ教授の見解は今日の悲観派の代表的見解を集約してもいるので以下に彼の上げた理由を簡略して列挙してみる。
ルビニ教授によれば、1)住宅不況は底を打つ気配がないこと、2)サブプライムモーゲージ不良債権化率の上昇、3)単にサブプライムモーゲージ市場だけではなく、マクロ経済的なクレジットクランチ(民間投資主体への信用逼迫)に波及する可能性が高いこと、4)信用力の高いCDOs(モーゲージ担保証券)市場もかく乱の可能性高いこと、5)他の信用リスク商品へも悪影響及ぼしていること、6)不動産負債の悪化で消費が停滞している証拠もあること、さらに7)経済はソフトランディングするどころか実質経済成長率0−1%ぐらいのハードランディングの可能性が高く、早ければ年内第4四半期か遅くても来年には深刻な不況に直面するだろうこと、8)FRBの利下げは、耐久消費財や住宅への消費に影響与えないから金融政策でこの不況の進行を止めることができないことなどを列挙している。その上で彼はブレトンウッズ2.0という言葉こそ使わないが、アメリカの総需要の激しい低下は世界不況をもたらすであろうこと、いいかえれば深刻な経済危機が待ち構えていることを予言している。このような悲観派の見解に影響されたわけでもないだろうが、次期大統領候補のひとりヒラリー・クリントン上院議員は、世界同時株安を機にこの双子の赤字に深刻な懸念を表明し、ベン・バーナンキFRB議長や財務省宛に公開書簡を送った。

○ ブレトンウッズ2.0は持続可能

 このように一部ではブレトンウッズ2.0への悲観的な見方も根強いが、現在のブレトンウッズ2.0の維持可能性は本当のところどうなのだろうか? これについては最近出版された安達誠司氏(ドイツ証券会社エコノミスト)の著作『円の足枷』(東洋経済新報社)が参考になる。安達氏は同書の中で、アメリカへの周辺諸国からの資金流入によって長期金利が低位安定していること、そして世界の資本市場が一体性を強めている中で先進各国の長期金利も低位安定している事実を指摘している。このアメリカ経済を初めとした先進諸国の長期金利安定は、ブレトンウッズ2.0の維持可能性を考えたとき本質的なものである。なぜなら名目成長率が長期名目利子率を上回っていれば、アメリカの対外債務の利払いは可能だからである。そして現在のアメリカの名目成長率は約6%、長期名目利子率は約4.5%でありこの維持可能性をみたしている。世界同時株安以後もこの長期金利の低位安定はかわらず、ルビニ教授の懸念に反して市場ではアメリカ経済の財政危機もまたそれを引き金にした世界経済の危機も深刻化しているとは判断していないようである。
 住宅不況についてだがこれは現在、底入れしたという見解と本格化はまだという見解が対立している。実際にどうなのかはいまの段階で断言できる状況ではない。ただ悲観派の多くは、住宅不況が貸し渋りを発生させることで、全般的な総需要の低下につながり成長率を押し下げる、という見方である。仮にこのシナリオが想定する事態になったとしても、類似の資産デフレ危機ともいえたS&L破綻後の経験からいえば、消費や投資を回復させるに十分な金利引き下げと長期金利の低位安定に貢献する財政再建との政策の組合せが、上記のブレトンウッズ2.0の維持可能性に貢献するだろう。そして現状のFRB金利水準をみれば金融緩和余地は十分といえる。また市場が不況のシグナルを金利に織り込んで一層の低金利に貢献するかもしれない。もちろんこの低金利は消費や投資の安定に寄与するだろう。つまり場合によっては不況に転落するかもしれないが、それが悲観派がいうようなハードランディングになるとはいえない、と私は思う。

● ブレトンウッズ2.0下の日本経済はどこへ?

 アメリカ経済がこのまま成長率の安定と長期金利の低位安定を維持できるとすれば、このブレトンウッズ2.0下は長期的に続く可能性が高い。この条件の下での日本経済はどうなるのだろうか。問題の核心は再び、日本経済の直面する金融的要因にある。そしてこの金融的要因とは日本の実質的なデフレの状態であり、それに大きな影響を与えている日本銀行の政策スタンスに対する問題ともいえる。
 本メールマガジンでも多くの論者(野口旭、若田部昌澄、岡田靖、飯塚尚己ら)が繰り返しこのデフレ的要因と日本銀行の政策スタンスとの関連に注意を促してきたが、それは小泉前政権後期から安倍政権に至って政治の場でも広く共有される認識になってきたといえる。例えば中川秀直幹事長の「上げ潮路線」というのは、デフレを解消し2〜4%の低いインフレ率を維持することで、日本の成長率の安定性を強化し、財政再建構造改革にも好循環をもたらす政策観といえる。そしてこの緩やかなインフレ状態の実現のためにキーになるプレイヤーはもちろん日本銀行である。
だがこの日本銀行の政策スタンスが「漂流」している、というのが立場を超えて内外のエコノミストが一致して抱いている見解であろう。現状の日本銀行はいわゆる「金利の正常化」(日本銀行が考える実態経済に適合した実質利子率水準の達成、これによって構造改革も実現できる、というのが福井総裁の発言からわかることである。なお構造改革は通常は金融政策で実現することはできない)を目的にして、2月に続いて年内中盤に利上げを探っている状況である。
この日本銀行の利上げの理屈は実に不鮮明である。インフレの加速化もみられない(3月30日発表の生鮮食品を抜かした全国消費者物価指数は前年比マイナスである)、また資産インフレの状況でもない。通常の中央銀行が利上げに事実上のデフレの中で利上げに走るいかなる理由もみあたらない。
シカゴ大学のアニール・カシャップ教授は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』の論説「金融政策の窮境 日本の中央銀行は漂流している」(日本語公式訳が日本のブロガーsvnseeds氏によって訳されているhttp://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20070307#p1)は、日本銀行の責務は「物価安定」であるが、この目標がきわめて低く(0〜2%)、しかも曖昧であり、なおかつすでに達成されたと誤解しているようだ、と厳しく批判している。さらにカシャップ教授は、政策委員会の決定前後でほぼ恒常的になった政策内容のリークの存在に深刻な懸念を示している。日本銀行の政策目標が恣意的であいまいなため、市場はその政策の理由をまともには理解できず、そのために日銀からマスコミへのリークを尊重してしまう結果になるのだという。つまり正面玄関からはもう正しい情報が市場に伝わっていない、リークの海の中で日本銀行の政策が漂流している、というわけだろう。
このリーク問題とそれに関連した日本銀行の金融政策のスタンスの曖昧さは、カシャップだけではなく、多くのエコノミストブルームバーグや海外メディアなどから批判されている。しかし日本銀行の対応はいまだはっきりしたものではなく、その責任をいかに免れるかに腐心しているようにも思える。

●漂流せず、上げ潮にのること

仮に上げ潮に日本経済が乗らずに、このまま漂流を続けた場合どうなるであろうか? 確かにブレトンウッズ2.0は日本経済にとってアメリカや中国の好景気からの輸入効果、世界的な長期金利の低位安定化の恩恵などをもたらしている。このまま漂流していても希望の地にでも漂着する幸運がむいてくるかもしれない。政策をすべて放棄してこの種の奇跡に日本経済をゆだねるというのも一種の御伽噺としては拝聴すべきかもしれない(なぜなら奇跡に思える幸運がまったくないとはいえないからだ)。
しかし、上記の安達氏の『円の足枷』ではそのような「幸運」が現実性をもっていないことを指摘している。同書によると、現在の円安(それに連動するデフレとデフレ期待の縮減)傾向は、外国人投資家による低コストな円資金による日本株などの購入に象徴される日本へのマネーフローの拡大(いわゆる円キャリートレード)などによってもたらされている。しかしこの事態は円安とデフレ脱却の継続とは両立しない。なぜならこのマネーフローの拡大は日米金利格差を主因しているもので、その格差はデフレ脱却とともに急速に消滅するからである。いいかえればマネーフローの増加による円安の維持、それによるデフレ脱却という事態は矛盾するのである。
ではどうすればいいだろうか。答は日本銀行上げ潮路線を採用し、緩やかなインフレを目標とするリフレーション政策にコミットすることである。この答はこの数年何度もいわれてきた。しかし依然として真理であることをやめない。