明日山陽子「米国最低賃金引き上げをめぐる論争」(アジア経済研究所)


 米国のメディア、経済系ブログでも頻繁に議論になっている最低賃金引き上げをめぐる論争の理論・実証・政策までをきわめて簡潔に紹介しているもの。たまたま発見したのだが、これはお得なサーベイで必読。内容は経済学の初等的な知識から記述しているのでここで詳細を紹介するまでもなく一読あれ。


明日山陽子「米国最低賃金引き上げをめぐる論争」
http://www.ide.go.jp/Japanese/Inter/Report/pdf/asuyama_0612.pdf


 日本でも最低賃金生活保護との比較を根拠に、貧困対策として最低賃金引き上げが語られている。このサーベイにも強調されている論点だが、最低賃金の引き上げは雇用への影響を中立的にしても貧困対策にはならない、と指摘している点が興味をひいた。例えば賃金引上げの恩恵をうける働き先の人たち、特にティーンエージャーは必ずしも貧困家庭に属してはおらず、貧困家庭の割合は比較的少数。所得増加効果も貧困家庭に与える影響は限定的だということが代表的な労働経済学の本から紹介されている。日本の現状はどうなのか非常に興味を高める。もし貧困家庭への所得増加が限定的ならば日本の賃金引上げ論の根拠である経済格差是正には限定的な効果しか及ぼさないであろう。つまり最低賃金引き上げは貧困対策の限定的なツールにしかすぎない、と指摘されている。


 ところで雇用への影響を中立的に仮定したが、当然通常の経済学のスタンダードである完全競争市場で労働市場を考えると、最低賃金の引き上げは失業をもたらすと説明されていることが多い。加えてその失業は未熟練労働者、特に若年層に不利に発生する、と云うのが定番の説明である。この展望論文では、完全競争的な労働市場でも失業発生という効果はいくつもの条件下では必ずしも成立しないことに注意を促している。


 特に労働需要の増加(日本でいえばリフレ的政策=名目成長率政策など)が伴えば、最低賃金引き上げがもたらす失業効果は削減されることを示している。その意味では現在の政府は上げ潮路線最低賃金引き上げ(+ホワエグ)であったが、その想定する経済モデルは完全競争的なものだった可能性が強い。


 日本での目に付く主張では、この組合せには関心がそれほどいかず、主に完全競争労働市場モデルを前提に、最低賃金引き上げについて批判的な意見が主流である。その一方で実務家や橘木氏らからは上げ潮政策を拒否しつつ、この最低賃金引き上げのみに格差対策がいっている。日本の主な論陣はこの三種類である。しかし明日山論文は完全競争労働市場モデルという理論面だけでもいくつもの論点が成立することを簡潔にしてしていて日本の最低賃金論争の理解にもきわめて役立つだろう。


 なお、これは意外に知られていないが、シカゴ学派(人によっては“市場原理主義”の牙城)の創始者であるジョージ・スティグラー("The Economics of Minimum Wage Legislation", 1946, AER)やミルトン・フリードマン(『価格理論』の該当章)は必ずしもこの完全競争的な労働市場観だけを採用しているわけではない。この明日山論文でも紹介されている需要独占モデルでの労働市場分析が彼等の貢献として知られているほどである。この需要独占モデルでは一定の条件のもとでは最低賃金引き上げが失業効果をもたらすよりも短期では雇用増加をもたらすことを理論的に示している。日本ではこの理論モデルに立脚した論者はあまり僕は知らない。そしてこのモデルでは最低賃金引き上げ政策は一定の条件のもとで雇用増加をもたらす点で、短期的には名目所得政策の一部分を補完する可能性がある(政府は雇用増加効果を最低賃金引き上げに求めてはいないので、このモデルで考えてはいないだろう)。また労働需要の増加=名目成長政策を組み合わされば、上記の完全競争労働市場モデルよりも所得増加に貢献する理論的余地はさらに高まることになるだろう。


 どのモデルで考えるべきか米国の論争と同様に容易に解を見出しがたい問題だが、明日山論文が最後に指摘しているように、最低賃金引き上げが貧困の解消にどれだけ実際に役立つのか、という効果をどう評価するかに行き着く。ただ日本の経済格差論争では、論壇の多くの論者は名目経済成長政策による事実上の経済格差解消効果に否定的なため、議論は勢い二元論的な展開を示しているといえるのかもしれない。

なお以下のエントリーも参照されたい:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070102#p1