一言でいえることをいかに長くのばすかの術


 実はかなり前から取り組んでいる論文があるんですが、三木清笠信太郎の比較研究で当初はスタートしたんですが、いろいろ試行錯誤してですね、足したり引いたりしまして人数や守備範囲を拡大したりしてぐちゃぐちゃやるうちに、また最初のただの比較研究に回帰しそうな勢いなんですが(関係者の皆さん、すみませんm〔〕m)。


 なんで試行錯誤=スランプ=ただの言い逃れ なのかというと、三木清笠信太郎といえばそれは全集もあるすごい思想家・経済学者・ジャーナリスト、さらには近衛新体制を知的に支えた昭和研究会の中核などといわれているわけなんでそれは取り組むのに、さぞやりがいのあろうというのが普通なのですが(実際、日本の思想家・歴史家で名だたる人たちが取り組んでいるのですが)……

 
 いえ、本当に自分でこう書くのも「いまさら気づいたのか、田中にぶすぎ」とか「ふざけるな、オレは三木清笠信太郎)の薫陶をうけた(あるいは弟子や親戚縁者)、おまえの意見はきにくわん」wなどと反論・ご批判があるのは承知しておりますが、正直に戯言かきますと、彼らの理論というか思想がただひとこと「オレみたいに頑張らない奴はダメ」というただそれだけでしかない、経済学・思想以前の駄法螺の集大成だということに、いまさら気が付いたのです。新刊では「構造改革主義」として三木と笠を括りましたが、さらにそれを突き詰めてというか、素でいうとただの威張ったおっさんのガンバリズムでしかないわけです。


一言でたるものを論文に仕上げている自分がなんだかだんだん香ばしく思えてきたのですが(あ、これぞこの匂いw……、いや、戯言ですので聞き流してください。


で、この「オレみたいに頑張らない奴はダメ」主義でいきますと、考えてみまするに実際には経済学的な効率性も無縁なわけです。「経済学はインセンティブを重視する」というのも無縁ですね。経済学の考えるインセンティブは「オレみたいに頑張る」という発想とは異なりますから。例えばマンキューの教科書の紹介されているような「経済学の十大原理」はほとんど関係ないものになります。

 ましてやマクロ経済環境による政策の割り当ても問題外になるでしょうし、財政・金融政策も「オレ」でも「頑張って」もないのでこれまた無縁か、あるいは場合によっては敵対する考えになります。「オレみたい」なことが重要なのでその基準で「成長産業」や「衰退産業」や「近代化(オレ化?)の障害」も選ばれるし、そもそも「近代」そのものが「オレみたい」を基準にしているわけです。ちょっとここで新著が突っ込み不十分だったのは、「オレみたいに頑張る」のが重要なので、政策の担い手でさえも別に「大衆」でも「テクノクラート」でも「指導者」「官僚」のいずれがなってもあるいはならなくてもいいわけです。

 こう書くと三木清が最後に親鸞の研究をやったことも「オレみたいに頑張る」の最終的な徹底だったわけです。笠の場合は、『ものの見方について』で日本人のものの見方がはっきりしていないのではなく、笠の「オレみたいに頑張る」の前に姿が消失しているだけなのでしょう。


 というわけで駄法螺の麺を細く長くする作業の成果はいずれ