経済学史学会で討論者

 経済学史学会で討論者になりました。

 徳島文理大学でのもの。
 http://jshet.net/modules/contents/index.php?content_id=108

 布施豪嗣(慶應義塾大学・院)氏の「古典派としての石橋湛山」について討論者でした。上記のリンク先に、布施氏の報告の概要がありますが、実際のご報告は概要よりも広がりがあり、さらに慎重に推敲を重ねておられましたが、僕の以下の討論用コメントは、事前にみることができた概要をベースにしたものです。他は当日のパワポ資料などをみてその場でコメントしました。そこをご理解ください。

 以下が討論コメント全文です。

布施豪嗣報告へのコメント

田中秀臣上武大学

石橋湛山の経済理論を、戦前から戦後復興期までを総合的に解釈する意図をもった意欲的な報告である。特に石橋湛山の経済理論の古典派的側面が「根底」であると重要視されている。他方でいわゆるリフレーション政策論的な側面は「表面」的な位置づけとなっている。

1 石橋湛山の経済理論の解明は成功しているか? 残念ながら失敗。
理由 古典派的な市場観<セー法則、価格・賃金の伸縮性による需給均衡等>が「根底」であり、リフレーション政策観が「表面」であることの理由がまったく説明されていない。例えば、教科書的な説明(AS-AD分析など)で、総需要不足の時は積極介入的なマクロ経済政策が必要となり、その事態が解消されれば市場調整に任せるという見解は、前者も後者も特に「根底」でもなければ「表面」でもない。単に経済環境と政策認識が違うだけである。なぜ「根底」なのか、なぜ「表面」なのかの説明が必要であり、それを裏付ける石橋の文言なども必要である。だがそのような努力はなされていない。

例えば、総需要不足(購買力不足)での積極的な政策介入は、石橋湛山の全言論活動で量的・質的に圧倒的な重みをもつ。対して古典派的な市場観は量的・質的にも比重が極端に小さい。この事実だけをみると、あえて報告者の言葉を借りるとすると、前者がむしろ石橋の言論活動の「根底」であり、後者が「表面」ではないか? 
古典派的な経済思想が石橋にあったとしても、それとリフレ政策の位置を、「根底」と「表面」に(証拠もなく)分けることは間違っている。

2 石橋が議論した前提を無視した、発言の切り抜きが多い。

全集7、p.253の引用は、貿易観の変化を示すものではない。ダンピング保護貿易主義による貿易の破壊に直面するならば、自給自足の方がましであるといういわば次善の策の発言である。石橋は自由貿易中心の観点を修正したわけではない。

全集8、p.428の引用を、報告者は「貿易観の変化は金輸出禁止論につながり、リフレーション政策とも密接に関わった」論拠としているが、この引用に示されるのは、金融政策を為替レートの安定(=金本位制)に割り当てることを放棄することを示しているにしかすぎず、貿易の話とはまったく引用文中で関連していない。

全集8、p.422の引用は、生産と消費が一致する場合を利用した購買力の説明である。だが、報告者のように「生産と消費の間の時間差を軽視する議論」というのは端的な間違いである。なぜならば、この引用された論文の題名は「金本位制の停止と購買力の増進」であり、生産と消費が一致しない現実が重点的なテーマである。すなわち「軽視」どころか「重視」した論説である。石橋はこの論説の中で、「暫く時間の問題を除外して考えれば、社会には生産があれば、必ず之に一致した購買力が存する筈である。然らば何うして実際社会には、生産があっても購買力が不足し生産過剰の現象が生ずる事があるか。ここに多くの経済学者が昏迷に陥るのである」(全集8、p.423)、「然るに実際社会には、あるべき筈の購買力が隠れて、生産過剰の現象が生ずることがある。それがここで以上に考えた理論を辿って見ると、斯様な現象は、誰かが其生産に依って得た購買力を使わない、即ち貯蓄する、そして其貯蓄がまた誰に依っても投資せられない場合の外には、起こり得る筈がない」(全集8、p.425)。この上で本論説は、投資奨励策としてのリフレーション政策を具体的に提示している。

またこの全集8、p.422の引用を利用して、報告者は「これは、賃金など各種の硬直性を重視したケインズ理論とは根底において異なるものであり、セイの法則を事実上認めている議論」だとするが、すでに指摘したように、1)「根底」という評価は妥当ではない、2)セイの法則で報告者が意図している「生産と消費の間の時間差を軽視する議論」を湛山は理論の中心において論じているのではない、3)また賃金の硬直性は湛山の労働市場を現実社会に即して考えるときに無視できない要素であることをまったく無視している点で深刻な誤りである。

石橋は名目賃金の硬直性を重視していた。リフレーション政策による回復過程の描写でその点を例示する。
「1.不景気から好景気に転換する場合には労働者にしてもサラリーメンにしても、個々人の賃金俸給は用意に増加せぬ。だから従来継続して業を持ち、収入を得ている者からは、収入は殖えぬに拘らず物価だけが高くなると観察せられる。二.けれども斯様な時期には、個々人の賃金は殖えずとも、少なくとも就業者は増加する。故に勤労階級全体としては収入が増える、購買力が増す。三.而して斯様に大衆全体の購買力が増えばこそ、其個々人には幸不幸の差はあるが、一般物価(ここで問題の物価は、云うまでもなく生活用品の価格だ)の継起的騰貴も起り得るのである」(第9巻;454)。
「私の信じるところでは、インフレに依って起こされようと、何に依って起こされようと、一般物価の騰貴が継続し、所謂景気が好化する折には、勤労階級全体の金銭収入は無論増えるがそれに依って買い得る商品の実量も亦殖える。但し其何れが多く殖えるかと云えば、それは前者であって、後者の殖え方は前者の殖え方よりも少ない。ここには別の問題が起こって来る。がそれにしても彼等の消費し得る商品量は増すのだから、積極的に(マルクス派の有澤がいうように…田中注記)大衆生活を困窮化すると云う事はない」(第9巻;455−6)。

 また価格・賃金の伸縮性によって景気の悪化を回避できるとした福田徳三の清算主義に対して、人間はミミズではない、とした石橋湛山の認識も重要(田中秀臣安達誠司『平成大停滞と昭和恐慌』2003年、NHK出版)。

全集13、p.368の引用。この引用は石橋が戦後のいわゆる高インフレ期における積極的な財政出動を、後年になって回想したもの。彼の眼目は、引用文中での「その就業を妨げる隘路」を積極財政で解消することにあった。もしこの点について、高インフレ期での石橋の政策判断の「非常に楽観的なインフレ政策」(報告者の文言)の問題性を問うならば、小宮隆太郎ケインズと日本の経済政策―是清・湛山・亀吉の事績を通じて」(『ケインズは本当に死んだのか』金森久雄編(1996)所収)は必読。また小宮説への異論(の根拠)を提起するものとしては、岩田規久男『経済復興』(2011)を参照しなければならない。

全集14、p.139の引用。これは購買力の不足がないケースの説明ではあり、すでに指摘したように、石橋がこのケースを「根底」で考え、他方で購買力の不足したケースを「表面的」とみなしていたかどうかの根拠とはならない。単に経済環境に応じた議論をしているだけである(この点はすでに述べたので繰り返さない)。

3 先行研究の参照が不十分

 報告者は、「これまでの湛山論では、こういった経済理論にまで踏み込んだ議論は比較的軽視されていた」と結論で書いている。これは適切な評価ではない。先にあげた小宮論説、田中・安達、そして岩田規久男編『昭和恐慌の研究』(2004)収録の若田部昌澄「「失われた13年」の経済政策論争」、田中秀臣「経済問題にかかわる雑誌ジャーナリズムの展開」などは、石橋湛山の経済理論を考える時に欠かせない文献である。また小日本主義とリフレ政策との関係は、田中秀臣「大震災と復興の経済学」(田中他編著『日本建替論』(2012)の中で詳細に解明されている。