映画「ワンダーウーマン」の経済学的考察by田中秀臣

スーパーマンバットマンと並ぶアメリカン・コミックの人気キャラクター:ワンダーウーマンを描いた新作映画が全世界的に大ヒットしている。パティ・ジェンキンス監督、ガル・ガドット主演『ワンダーウーマン』だ。アメリカでは『アナと雪の女王』の興行収入を上回り、女性監督の作品としては現時点で歴代興収第二位になっている。ちなみに全米興収第一位の女性監督作品は、エマ・ワトソン主演で日本でも大ヒットした『美女と野獣』(2017年)である。日本での興行成績はまずまずの滑り出しだが、全世界で約800億円(全米では400億円)を稼いでいる。

 『ワンダーウーマン』の原作は、戦前からのアメコミなのだが、その発行元はDCコミックである。このDCコミックを原作とする映画群を「DCエクステンデッド・ユニバース」と呼んでいる。アメリカでは二大コミック会社が存在していて、DCコミックのライバルに、マーベル・コミックがある。日本に比べてマンガの生産者は、極端な複占体制になっている。複占とは、財やサービスを生産する主体がふたつであることを意味する経済学の用語である。ひとつだけだと独占、少数だと寡占などが表現として用いられる。独占も複占も競争相手がいないか、少数なので自分たちが供給する財やサービスの価格をコントロールすることができる。対して、完全競争という経済学の用語があるが、これは財やサービスを消費する人も多数で、また供給する(生産する)人たちも多数であり、誰一人として市場で取引される価格を支配することができない状況を表現している。

 いずれにせよ、アメリカのコミック産業は二大メーカーによって支えられている。それ以外のインディーズ系のコミック(グラフィック・ノベル)や新聞掲載のコミック(コミック・ストリップ)の世界もある。特に後者は『スヌーピー』ぐらいしか日本にはなじみはないが、事実上、アメリカで最も人気があるコミックの世界である。もちろん日本のマンガも翻訳されていて人気を得ている。ちなみに北米(アメリカ&カナダ)のコミック市場の規模は、2016年で約1200億円だ。日本は約4500億円ほどなので、全体の規模もまた人口当たりのマンガ(コミック)への支出も日本の方がはるかに巨大だ。

 話を『ワンダーウーマン』に戻す。マーベル・コミックがその商品を原作とする映画『アイアンマン』の大ヒットをうけて、映画製作会社マーベル・スタジオは、「マーベル・シネマティック・ユニバース」という一連の映画シリーズを制作してこれも世界的な人気である。スパイダーマンキャプテン・アメリカ、そしてアベンジャーズなどを主人公にした作品が続々と作られている。そしてライバルのDCコミックも今回の『ワンダーウーマン』も含む、スーパーマンバットマンらが共通の世界を背景に活躍する「DCエクステンデッド・ユニバース」を提供していることになる。

 「DCエクステンデッド・ユニバース」も「マーベル・シネマティック・ユニバース」ともに、複占企業のブランド構築や広告として機能している。ごく少数の企業同士が、似たりよったりの商品の売り上げを競うときに、価格で競争するのではなく、今回のように映画という副産物を利用して売り上げを伸ばすことがある。これを「非価格競争」という。

映画をみた観客が、原作の世界にも興味をもつ。もちろん逆のパターンもあるだろう。ただ北米市場をみれば、コミックの年間売上は1200億円だが、今回の『ワンダーウーマン』ひとつでも400億円になるので、映画とコミックでは市場規模が違いすぎる。映画からコミックに流れる経済効果の方が巨大だろう。いずれにせよ、映画を利用した非価格競争での勝敗が、DCとマーベルの今後の実績に大きな影響を及ぼすため、今後もしばらく両社の熱い戦いが展開されるだろう。

 さて映画『ワンダーウーマン』は、神ゼウスによってつくられた女性戦士(アマゾン族)だけの島(セミッシラ)の王女ダイアナ(ガル・ガドット)が、たまたま島に漂着したアメリカの軍事スパイによって導かれ、第一次世界大戦に巻き込まれていく姿を描いている。第一次世界大戦における欧米の女性に対する偏見、そして戦争や人間そのものに対する洞察がかなり深く描かれていて興味深い。監督のパティ・ジェンキンスは、「モンスター」という女性の連続殺人犯を取り上げた映画で、主演のシャーリーズ・セロンにアカデミー主演女優賞をもたらしている。比較的佳作の映画監督で、これが長編二作目だ。『モンスター』は、女性の社会からの疎外や差別をテーマにしていた。殺人犯となった女性は、なんとか社会で幸福を掴もうとあがくのだが、その結果として幸福とは真逆である殺人犯になってしまう。この逆説的ともいえる姿は、女性だけではなく、社会で疎外されている普通の人たちのあり方にも重なっていく意味で、まさに「人間」を描いた映画だった。

 今回の『ワンダーウーマン』にも共通する点が多い。一見すると女性の強さを描いた映画のようだが、他方で普遍的な人間を描いた映画でもある。特に始めは、第一次世界大戦を連合軍が「正義」「善」で、ドイツ軍が「非正義」「悪」として描かれていくのだが、この二項対立を乗り越えて、いったい何が本当の正義なのかを問い直してくワンダーウーマンの姿が描かれている。

 単純な善悪では描ききれない世界。主演するガル・ガドットイスラエル出身の俳優である。兵役の経験もある。彼女自身の過去の発言やイスラエル出身であることをうけて、レバノンやヨルダンでは同作品の激しい上映禁止運動が起こった。実際の世界では、映画についてだけでも「正義」と「不正義」が争われる舞台になっているのは否定しがたい現実である。

 だが、パティ・ジェンキンス監督は、この二項対立的な世界に対しても挑戦的なメッセージを投げかけているかもしれない。ワンダーウーマン自体には、数百か国を自由に話す才能を授けられている。これは(筆者が読んだ範囲の)原作では明示化されていない特徴だ。またガル・ガドットも含めて、出演陣の国籍もバラエティに富み、話す英語にも多様なアクセントを感じる。アジア系の俳優は出てこないのだが、映画に描かれているのは、多様性の可能性とでもいうべきものだろう。

 映画では最初、単純な正義と不正義の二項対立で描かれていた戦争の世界が、ワンダーウーマンの精神の成熟とともに、多様性に寛容な平和の世界として描かれてとりあえず終わる。『ワンダーウーマン』が世界的にヒットした背景には、グローバリズムの時代における寛容の精神をそこに人々が見たからではないだろうか? この時には厳しく対立する多様性を包含する寛容の精神は、経済学を考える上でもきわめて重要である。

                                  田中秀臣

 

『電気と工事』への寄稿を転載。