「総供給側の改革」を否定したい一部論者の誤解

 潜在GDPにまで現実のGDPが達してないから、「供給側の改革はするな」とか「供給側の改革をするとむしろ潜在GDPは低下する」という専門家がいて驚く。それは単なる「供給側の改革を否定したい思惑」だけがでている偏見でしかない。政策の割り当てが違うだけあり、供給側の改革が「悪」ではない。

 小泉ー竹中構造改革を否定したい政治的偏見が先行している人たちは、「供給側の改革」自体を悪者にしたてて悦に入っている。それは「構造改革なくして景気回復なし」とした悪しき構造改革主義と、ちょうど表裏一体をなす反供給側改革主義とでもいうべき議論だ。

 現実のGDP潜在的GDPに達しないのであれば、その総需要不足の状況に対応するのは財政政策や金融政策。ただそれだけ。もし供給側の改革でこの「ギャップ」に対処できると思うのならばそれはおかしい。だが、供給側の改革をこの状況で「まったくしない」というのはあまりにも異様な発言だ。ある経済評論家は「デフレが続く中では構造改革は停止」とテレビでかって発言して驚いたことがある。

 詳しくは、我々の『構造改革論の誤解』や野口旭さんの新刊『世界は危機を克服する』をよんでほしいのだが、例示をしてみると、警察と大学の先生でもいい。やることは別。犯罪がおきる。それを解決したり予防するのは警察。大学の先生の講義は、警察の活動とはとりあえず無縁に、毎日行われている。大学の講義がきっかけで不幸にも犯罪が起きたり、あるいは犯罪が防げたりするかもしれない。前者でも対処するのは警察。

 10数年みてきたある種の思考パターンがあつて、さっきみたいに政策の割り当てが重要とかくと、あたかも「構造改革」全面賛成、「供給側の改革」全面賛成、と読み替える人がいるw 僕が書いたのはあくまで割り当てだけ。その「供給側の改革」自体が具体的にどんなものか検討する話はまた別問題である。

世界は危機を克服する: ケインズ主義2.0

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構造改革論の誤解

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