「Tokuzo Fukuda. Briefe an Lujo Brentano 1898 - 1930」とWolfgang Schwentkerの序文

 1930年までの日本の経済学界の代表者福田徳三とドイツ歴史学派の代表者ルヨ・ブレンターノの書簡。福田からブレンターノに送られたものを掲載してある。福田はブレンターノの弟子であり、また福田は日本の福祉社会論や生存権の経済学的側面での発言を日本でもっとも早く行ったことでも有名。

 この書簡にシュベントカー氏が序文をつけたもの。同内容は日本語で翻訳されてもいる。日本とドイツの知的交流史としても重要。

 ブレンターノは歴史学派ではあるが、市場メカニズムを重視した人物。と同時に古典派経済学の賃金鉄則には反論していて、市場の拡大と賃金の上昇、生産性の向上は矛盾したいと主張していた。ブレンターノの自伝には福田の名前はでてこない。シュベントカー氏はこれをブレンターノには弟子が多くいて特に福田が重要ではなかったとしているが、それはどうだろうか? 福田の著作のドイツ語訳は当時の経済学界や歴史学にそれなりの影響を残している。ブレンターノの弟子の中でもそれなりに重要な人物だと思う。

 福田のブレンターノへの評価も書簡では賛辞ばかりだが、福田の論述は1920年代以降、ブレンターノ的な立場からは距離をおいて、独自の福祉社会論、特にイギリスの厚生経済学の批判的吸収に向かっている。このブレンターノとの距離をシュベントカー氏はふれていない。

 シュベントカー氏によれば、福田の書簡の中味は以下の四点である。

1 自由貿易保護貿易…福田は自由貿易論者だった
2 福祉国家と福祉社会…金井延のように国家のための労働者の福祉向上ではなく、個々のひとの福祉向上を目指す社会構築が福田の問題意識。
3 経済史と経済問題……日本経済の動向を歴史的視点で考える
4 福田と政治の問題……特にマルクス主義の台頭など。

シュベントカー氏は、1925年以降の日本におけるマルクス主義の台頭を福田は問題視していてそれをブレンターノに報告しているとする。そして日本の政党政治の行き詰まりを打開する参照枠としてワイマール共和国を利用していた。ここには「憧憬」としてのドイツが機能している。しかし、シュベントカー氏は同時に、福田にはドイツの国家社会主義がはらんでいた危険性に疎かったという。

 この指摘は興味深い。私見では、最晩年の福田はゾンバルトやゴットルらの理論に傾倒していて、それが資本主義でもなく共産主義でもない方向性を、資本主義をおしすすめることで開化するとみなしていた(清算主義を徹底することで実現する)。この国家社会主義的な方向性への期待感をもったまま福田は1930年に人生の幕を閉じるのである。

Tokuzo Fukuda. Briefe an Lujo Brentano 1898 - 1930

Tokuzo Fukuda. Briefe an Lujo Brentano 1898 - 1930

シュベントカーの上記序文は以下に訳出されたものと主張はほぼ同じ。

コンフリクトから問う その方法論的検討 (叢書コンフリクトの人文学)

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わが生涯とドイツの社会改革―1844~1931 (自伝文庫)

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