AKB48襲撃事件とコンドルセの陪審定理

『電気と工事』(7月号)に寄稿したものの草稿

 6月25日夕刻、岩手県滝沢市岩手産業文化センターで開催されていたAKB48の握手会で、AKB48メンバーが24歳の男性に「襲撃」された。メンバーの入山杏奈川栄李奈は指を骨折・裂傷、入山は頭部にも裂傷を負う大けがをした。また「襲撃」を阻止しようとした男性スタッフもけがを負った。

 この原稿を書いている段階では、男が「襲撃」した動機は不明だが、犯行を認めていることなどから確信犯であったことだけはわかる。またマスコミなどの周辺取材から、男は特にAKB48のファンであったということではないようだ。一部のマスコミの分析では、AKB48を「襲撃」することで目立ちたいだけであった、とする報道もある。また男は高校卒業後、アルバイトで働いていたが、「襲撃」当時は無職であり、「ひきこもり」がちであったなどとも報道されている。被害にあわれたメンバーとスタッフには本当に気の毒な事件としかいいようがない。またこの事件が襲われた人たちの体や心にどのような影を今後おとすか、本人はもちろんのこと、周囲の関係者、ご家族、そしてファンの方々も大変に心配されていることだろう。

 この「AKB48襲撃事件」をめぐっては、私の周辺で日頃からアイドルについて言及している人たちが、それぞれの見解を明らかにしている。AKB48が採用して彼女たち自身はもちろんのこと、日本のアイドル市場の一大特徴ともなった「会いにいけるアイドル」=接触型アイドルの今後がどうなるかが、大きな話題になっている。
 ただ他の論点もいまの日本のアイドル市場の特徴を考えるうえできわめて重要だ。主要な論点を列挙すると
1) この事件を契機にしたアイドルやアイドル運営やファンたちへのネットを中心にした匿名者たちの誹謗中傷
2) 握手会を典型とする「会いにいけるアイドル」システムのセキュリティーの問題
3) 接触型アイドルと非接触型アイドルを比較して、今後の接触型アイドルの衰退を予想する論点
などである。

1)は、いわゆる「ネット炎上」や「うわさ」の拡散、そのサイバーカスケードあるいは“集団分極化”という問題になる。日本のネット社会は匿名を好む傾向が強く、そのため発言に責任をもたない風土が根強い。そのことが当事者ではないにもかかわらず、該当する問題に無責任な発言を強くもつ傾向を助長しやすい。サイバーカスケードとは、ネットにおける集団的行動が一方向に大きく動くことをだいたい意味する。「集団分極化」はその集団行動が、あたかも善か悪かのように極端な意見対立として現れる現象を指す。
批評家の宇野常寛は以下のように述べていた。

「あと、先に言っておくけれどここぞとばかりにオタク批判、アイドル批判、AKB運営批判、アイドルファン批判がはじまるはず。今のツイッターはそういう文化が根付いてしまったので、あまり興味もない人がイジメの快楽をカジュアルに得るためにこの事件を利用するのだと思う。」(6月25日twitterでの発言)。
 このような宇野の“けん制”は、先ほどのサイバーカスケードのひとつの方向への批判として読むことができる。実際に、私が観測したところ、この事件を契機にして、悪意のあるデマや噂、そしてメンバーへの常識を逸脱した誹謗中傷が見られた。

 ハーバード大学で経済学にも多くの貢献をしている法学者のキャス・サンスティーン教授に「ハイエクでもなくハーバマスでもなく」という論文がある。その内容は、今回のAKB48襲撃事件のネットでの「評価」「情報の受容」のあり方にも参考になる意見である。

 経済学者のフリードリッヒ・ハイエクは市場の機能として分散した情報を価格というシグナルに集約できると考えた。これと同じ役割を、ネット(例えばブログやTwitterなど)も担うことができるというハイエク的見解を採用するものに、米国の元最高裁判事であり高名な法学者のリチャード・ポズナーがいる。だが、サンスティーンはこのようなハイエク=ポズナー的見解を却下する。確かにブログなどは一定の発言に責任を持つことが可能なシステムに思えるが、実際にはネットには「価格は不在」である。ハイエク的な意味で、断片化した情報を集約し、それを不特定多数に伝える価格はない。嘘や質の悪い情報が、ネット市場での「価格」によって評価され、適切に処理される見込みはない。また反対に信頼できる発言や質のいい情報が適正な評価(価格付け)をうけることもできない。

 では、価格メカニズムが不在だとして、それに代わってネットの参加者が討議していき、ネットの多様な情報を評価することは可能だろうか? サンスティーンはこれをドイツの哲学者であるユルゲン・ハーバマスの議論に由来する「討議民主主義」であるとした。しかしこのハーバマス流の討議民主主義についてもサンスティーンの結論は悲観的だ。

 例えば、今回の問題で、AKB48の握手会開催が今後是か非かをネットで討議しているとしよう。そのときに両極端(開催か、開催しないか)の選択肢が強くネット上で大勢になったときには、ハーバマス的な討議の力はきわめて限定されてしまう、とサンスティーンは指摘している。集団的熱狂の前に、個々の意見の力はないに等しいのだ。
 では、どうすれば? サンスティーンはここで「コンドルセ陪審定理」という考えを持ち出す。これは二者択一の問題(例えば今後、AKB型の握手会を続けるべきか否か等)について、多数決を行うこと、そして多数決を行う個々のメンバーの正答率が50%を超えていること、この二条件がみたされると、集団の規模が大きくなればなるほど、その多数決の信頼性は増していくというものである。別な側面でみると、個々のメンバーの誤答率が50%を超えると、集団の規模が大きくなるほど信頼のおけない決断に収束してしまうことになる。また50%を上回るか下回るか不明なときは、この定理が適用できない。

 この定理は面白い。なぜなら個々の人が大概あたっているかどうかを判別するには、その個々の人の「正体」「人物同定」ができないといけないからだ。匿名性が闊歩している日本のネット社会では、「みんなの言ってることはほとんど疑わしい」という帰結がでてくるのかもしれない。