青木昌彦『青木昌彦の経済学入門ー制度論の地平を拡げる』

 20年くらい前に僕も青木昌彦氏の本を熟読していた。ご本人にもお会いしたことがあるのでその英知は十分に理解しているつもりである。ただ10数年前に経済時論を初めて、たとえば日本のサラリーマン論を書いたときに、青木氏の比較制度的な観点からの日本経済論がまったく僕には役に立たなかった。ひとつには、青木氏の視点には、「マクロ経済政策と制度との複雑な相互関係」というべき視点がごっそり抜け落ちていたからだ。

 マクロ経済政策の失敗は、日本のサラリーマンというか雇用制度や経済制度にも大きな影響を与える、そしてサラリーマンたちの認識や生活様式の選択パターンにも変化を与える。この一方向の影響だけではなく、それがサラリーマン(だけでなく経済主体)の認識の在り方も変化させることで、雇用制度や経済制度そのものにもまた変化を与えていく。そういった「マクロ経済政策と制度との(主体の認識の変化を媒介とした)複雑な相互依存関係」こそが、僕のテーマであった。

 しかし残念ながら、青木氏のいかなる本にもそのような「マクロ経済政策と制度との(主体の認識の変化を媒介とした)複雑な相互依存関係」は存在しない。したがってあまり役に立たないものとして映った。またそれは青木氏の日本の「失われた20年」をみる視点の欠点にも思えてくる。

 この青木氏の欠点、というか青木経済学の構造的特徴(「マクロ経済政策と制度との(主体の認識の変化を媒介とした)複雑な相互依存関係」の無視)は、本書でもみてとることができるだろう。本書に掲載されているミルトン・フリードマンと青木氏との対談がその典型的なものだ。フリードマンが日本の長期停滞を金融政策の失敗に求めてもその論点を青木氏はいっさい無視している。基本的には、青木氏は日本の停滞を90年代からの日本の調整過程の産物(グローバル化や人口減少化へのもの)としてとらえ、それが2020年ごろに終わるという立場だ。後者の2020年メドというのは今回初めて目にする発言である。ちなみに本書の末尾は東京オリンピックの話題である。

 また本書では日本と中国、韓国の経済発展の5段階説が展開されている。それは物語として面白い面もあるだろう。しかし新古典派的な経済成長論(比較優位、ヘクシャー・オリーンなども含めてもいい)でほとんど説明可能な「物語」にしか思えない。また五段階説もよく聞くお話しの青木的レトリックの再説のようにしか思えない(本書のもととなる韓国、日本、中国の段階説論文も読んだのだが同じ感想を抱いた)。

 正直、山形浩生さんたちがなぜ青木経済学に入れ込むのか……昔の自分を思い起こすとわかるのだが 笑 いまの自分にはよくわからないのが実情である。少なくとも“マクロ経済政策と制度との(主体の認識の変化を媒介とした)複雑な相互依存関係」の無視”というのは、青木経済学の欠陥ないし百歩譲って大きな特徴ということが、(制度プロセスの認知的側面を扱っているだけに、不可思議だという意味でも)本書で明らかになっている。