アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』と清算主義

『電気と工事』2013年7月号の元原稿
 清算主義という言葉をご存じだろうか? 清算主義はあまり一般には聞かない言葉かもしれない。この清算主義を簡単にいうと、経済の成長や発展は、資源を無駄に利用しないことによってもたらされる。これを「効率的利用」と経済学者は表現する。そのために社会に非効率的な資源の利用があればそれを除去しなくてはいけない。簡単な言葉で書けば、ムダをなくせばなくすだけ経済は発展すると考えている。この清算主義を実行するためには、政府の介入は必要ない。たいていは政府の介入は効率的利用の促進をかえって妨害してしまう。かならず市場の自律的な淘汰の力で行うべきである、という主義である。

 経済学の歴史では、第二次世界大戦前の経済学者の多くがそのような清算主義の立場であった。例えば、アメリカの大恐慌期に、大不況で失業や企業の倒産が相次いでも、清算主義者はそれを非効率的資源(無駄な人員や経営のいいかげんな企業など)の淘汰であり、必要悪とみなしていた。いまの日本で置き換えてみると、失業率が4%台であり、通常はこの多くの部分が不景気の責任として考えるのだが、清算主義では不景気のせいではなく、そのような失業に陥っている人々の自らの責任(自分がムダな資源になったため)か、あるいは社会の前向きな軋轢がもたらした必要悪と考えてしまう。もし失業状態が好ましくないと、失業者が考えたのならば、自らを「ムダ」でなくす努力をし、それが市場に「ムダではない」と認められる努力が必要である、ということになる。そしてこのような努力の社会的蓄積こそが、まるで競技選手が筋肉を鍛え上げるのと同様の効果をもたらし、より高い能力を経済全体が身に着けることになると、清算主義は考えている。清算主義に批判的な人たちは、「筋肉主義」と揶揄することもある。

 このような清算主義的な考え方は、ときおり倫理的な色彩を強く帯びることがある。例えば、上で書いたように、失業は自分の責任なのであるから、他人や社会の責任に“するべきではない”から、またはムダなものを積極的に社会は排除“すべきだ”、などの形態をとることが多い。そしてこの“すべきだ”というハードルを超えることで、個々人も組織もそして社会も、別な高いステージに至るのだ。

 このような清算主義的な態度は、経済学だけにとどまらない。日常生活での何気ない発言から、あるいはアニメ、小説、映画などにも色濃く見出すことができる。

 例えば、アニメ作品でいえば、『魔法少女まどか☆マギカ』(略称:まどマギ)は代表的な清算主義的作品である。新房昭之監督、虚淵玄(うろぶち・げん)の脚本からなるこの作品は、2011年春、東日本大震災が起きた前後に放送され、人気をよんだ。アニメは当初は単純な魔法少女もの、つまり普通の女の子が魔法少女になり、仲間たちとともに魔物を退治していく展開だと思われていた。しかし話が進行していくにつれて、それは魔法少女たちの悲惨な物語、僕の言葉でいえば、清算主義的な様相を表していく。 

 魔法少女たちはそれぞれが願いを果たす代償として魔物を退治しなければいけない。つまり「何かの得は必ず何かの損」というゼロサム的なゲームの規則が貫かれている。このゼロサム的は発想も、清算主義の特色のひとつだ。更なる発展のためにはムダ(犠牲)が必ずつきものであるという考え方だ。「まどマギ」では、このゼロサム的ルールは、「希望と絶望のバランスは差し引きゼロ」であると劇中で説明されている。しかも現実の清算主義の帰結がそうであるように、結局、この清算主義的なルールにのって、魔法少女になった女の子たちは、例外なくすべて悲惨な末路に至る。救いはない(政府の介入や第三者の介入もない)。

 アニメは、この救いのない清算主義的ルールを破壊するために、主人公の“まどか”が決断する姿で終わりをむかえる。いままでのルールを変更して、別なルールで魔法少女たちすべてを救済するというやり方を、まどかは自らを犠牲にして選択する。

 しかしこのとき、まどか自身の採用した清算主義に対抗するルールもまた清算主義的な動機を持つものであった。
「すべての魔女を、生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女を、この手で…今日まで魔女と闘ってきたみんなを、希望を信じてた魔法少女を、わたしは泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる。変えてみせる」(最終話、まどかの発言)。

 このまどかの清算主義的な動機が禍したのか、物語のもつ清算主義的ルールは変更されない。魔法少女たちは、せいぜい、自分たちの願いの成就が、魔物退治との終わりのない闘いと引き換えであると、事前に告知されるぐらいである。魔法少女たちが次々と参加し、そして闘い続ける無限ループに似た「希望と絶望のバランスは差し引きゼロ」は不変のままだ。

 アニメの最後に出てくる文句はこうだ。「悲しみと憎しみを繰り返す救いようの無い世界だけれど」。しかし希望が絶望を上回る“べきだ”と今日も魔法少女たちは闘いを続けていく、まどかの願い、まどかの倫理的な縛りをうけながら。

 このようなアニメ世界に明瞭な清算主義的マインドを導入したのは、脚本の虚淵玄の貢献が大きい。彼はある著作(『フェイト/ゼロ vol.1』)の中で次のように述べている。

「物事というのは、まあ、総じて放っておけば悪い方向に転がっていく。どう転んだところで宇宙が冷めていくことは止められない。「理に適った展開」だけを積み上げて構築された世界は、どうあってもエントロピーの支配から逃げられないのである。故に、物語にハッピーエンドをもたらす行為は、条理をねじ曲げ、黒を白と言い張って、宇宙の法則に逆行する途方もない力を要求するのだ」。

 実は。2011年というのは、アニメの世界をみると、このような清算主義的なルールを、途方もない力で逆行させたり、改変させようとする主題をもったアニメが連続して放送され、人気を得た。『輪るピングドラム』、『シュタインズ;ゲート』、『Fate/Zero』などだ。長いデフレ不況が生んだデフレカルチャーが、清算主義的なテーマをもった作品群を生んだともいえるのかもしれない。

 また清算主義の思想では、政府の介入は経済をより停滞させてしまうのだが、その点で注意すべき論点がある。それは不況を解決するために、積極的な金融政策を援用すれば、実体経済の改善にはまったく効果がないにもかかわらず、ある日いきなりハイパーインフレーション(年率1000%の高インフレ)に見舞われるであろう、というものである。このような主張をするものは、今日でも枚挙に暇がない。面白いことなのだが、清算主義的なアニメが大量に放送された2011年には、このハイパーインフレをテーマにしたアニメ『C』(シー)も放送されていた。 

 ところでこれらの清算主義的なアニメと対抗する形で、清算主義を克服しようとするテーマのアニメ群も登場してきた。この話はまた機会をあらためて書きたい。

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以下は、首都大学東京で2012年後期に行われた「社会思想」講義のパワポ