東京都青少年条例改正案を考える(再録:初出「シノドスメールマガジン」2010年12月1日)

 シノドスメールマガジンに掲載されたものを一部修正して掲載。

 興味深い動きがあった 。言うまでもなく、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の改正案をめぐる話だ。この問題についての自分の考えを簡単に述べておくのも意義のあることだと思う。
 この条例改正案は、今年の前半の言論界の大きな話題のひとつだった。条例案には、「非実在青少年」の規制、また児童ポルノの「単純所持」の規制などいやでも目立つ主張が目白押しだった。これをめぐって出版界ー特にマンガ家や評論家が中心になり、反対運動を繰り広げた。ネットを中心に規制反対の声は、とりあえず都議会で過半数を占める都民主党を動かして、この「非実在青少年」条例案は廃案になった。そのときから、石原慎太郎知事は、「何回でも提出する」と強調していたので、今回の再提案も予想の範囲のことだったろう。
 ところで前回とは異なり都側の条例案には、言い方は悪いがキャッチ―なものが不在だ。「非実在青少年」も文言は消えた。また児童ポルノの単純所持規制もない。このためだろうか、前回に比べてネットでの反論の声も抑制されているような気もする。もちろん前回と同じように、マンガ家たちは既得権を侵されるわけだから反対の声明を出したりしている。また山口貴士弁護士のサイトなどがこの問題をわかりやすくまとめているようだ。簡単にいうと、規制の対象が一般化した分、前回の改正案よりも規制が強化された(部分もある)、というものだと思う。
 『週刊ポスト』の2010年12月10日の記事を読むと、今度の条例案は選挙がらみで民主党が賛成に回るとか、また規制がこんなに執拗に求められるのは、警察官僚たちの天下りを容易にするためだとか、いろいろ面白い話題が書かれている。規制の実行部隊を警察官僚や都職員の天下り先が行うのではないか、というのは僕もニコニコ生動画に出演したときに言及したが、あまり誰もとりあげてくれなかった。
 さて僕のこの問題についての考えを簡単にまとめてみよう。
 いま、ある「人」が、自分が利用できる情報をすべて活用して意思決定をしているとしよう。このとき、その「人」の意思決定は「合理的」だとみなされる。その選択が合理的に行われているのであれば、選択の結果にその合理的主体が責任を負うことも正当化される。なぜなら選択の結果も彼が選択を行った時点で利用できる情報の中に含まれているからである。このとき「人」は「経済的合理人」と表現される。経済的合理人には、特に断らない限り、年齢は不問である。子供でも宇宙人でも合理的選択を行っていれば「経済的合理人」である。
 例えばたばこの吸いすぎであるとか、ポルノの見すぎであるとか、ゲームのやりすぎであるとか、はたからみて「やりすぎ」「中毒」という評価が下されても、本人たちは合理的に選択をし、その結果についても十分合理的に判断していることになる。これを「合理的中毒者」とも表現できる。「合理的中毒者」が、「合理的非中毒者」と異なるのは、その中毒行為が過去の中毒の水準や、将来可能な中毒の程度に影響を受けるということだけで区別される。例えば、たばこが値上がれば、将来の中毒の水準に経済的な制約が加わる、合理的な中毒者はその影響を「経済的合理性」から判断して、現在の中毒の水準を自己コントロールできるだろう、という見方だ。
 この経済的合理人や、合理的中毒者の考え方は強力だ。例えば18歳以下の青少年が、「非実在青少年」が性交を行っているマンガやアニメやテレビゲームをみても、その影響を合理的に判断していれば、実はそれほど大きな問題はない。また中毒的にそれらのものを消費していても、基本的に経済的な要因を変化させれば、自己コントロールが効くので、あまり過剰な他者の介入を行うべきではなくなる。 たとえばエロマンガは18歳以下は絶対禁止というのは過剰な介入の怖れがある。課税をすることで小売り段階の価格を上げて、18歳以下のエロマンガ愛好者(=合理的中毒者)の消費を低下させて、「過剰」消費を抑制する方策も有効だろう。課税した部分はそれこそ青少年の「健全」な育成に利用することもできるだろう。よくは「健全」があまり理解はできないが。
 もちろんすでに事実上の「課税」は行われているともいえる。18歳以下が購入しずらいようなゾーニングの設定、ビニールでの梱包、ナイロンの縄でしばるなども含まれる。これらは出版側への事実上の課税であり、もちろんその一部分は消費者に転嫁されている。合理的なエロマンガの愛好者(中毒者)は、すでに「過剰」消費を一定の割合で抑制されているともいえる。今回の条例改案はさらに事実上の課税を強化しようという試みなのだろう。
 問題は実際に「過剰」消費が本当に起きているかどうかだ。その証拠(エビデンス)を示す必要はなく、モラルの観点で要請されれば、介入根拠は満たされるというのがどうも規制側の主張のようだ。正直、そのような態度は規制の賛成・反対にかかわらず論外な議論の態度といえる。
 ところで18歳以下のエロマンガの愛好者は、合理的な消費主体だろうか? 最近、出版された長岡義幸氏は『マンガはなぜ規制されるのか」(平凡社新書)の中で、子どもは合理的な消費者である、という主張を事実上行っている。つまり自立した合理的な判断主体であり、彼女・彼らが何を愛読していようが、その読書行為からもたらされる影響を含めて、すべて合理的に判断可能なものであり、その影響についても自己責任で請け負う、というものである。この議論が成立すれば、公的な介入の根拠は乏しい(もちろん合理的な主体が取引する場=市場にも失敗は伴う)。長岡氏の本はマンガ規制についての背景について非常に明快に説明していて、いい本である。ただ本当に子供は合理的な主体なのか、については議論があるだろう。
 たとえばマンガではないが、テレビゲームが子供に与える「悪影響」については、実証的な意味で議論がある。坂元章お茶の水女子大教授の『テレビゲームと子どもの心』(メタモル出版)では、テレビゲームについての「悪影響」の可能性が排除できないものとして実証的根拠をあげている。もし合理的な判断(合理的中毒者を含めて)が成立しないケースが、マンガの消費にもみられるのならば、価格を用いたコントロールではない、直接の禁止や制限なども考慮に値する余地がでてくる。
 いずれにせよ、エロマンガの「悪影響」の可否を含めて、エビデンスの収集と分析など、まだまだやらなければいけないことが多いだろう。少なくとも素朴な観察で、現状のエロマンガの消費が大きな弊害をもたらしたといえないのであるならば、今回の条例改案もモラルの強引な押し付けである点も含めて否定されるべきものだと思う。

テレビゲームと子どもの心―子どもたちは凶暴化していくのか?

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