荻上チキ『彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力』

 素晴らしい本だ。それ以上に研究とは、啓蒙の在り方とは、そしてそもそも人間とはなんだとろうか、という思いを何度も本書の通読中に思った。語り口はやわらかくまた優しいが、時に熱情的なメッセージが冷静に刻み込まれている。同時代の“全体像”を出会い喫茶、出会い系という風俗を通して描いた著作だ。多くの人が長くこの著作を読み、私たちがいま生きている2010年代の肖像として今後利用していくだろう。それほどの著作だ。経済思想史的にいえば、これはまさに現代の『貧乏物語』なのだ。河上肇のこのベストセラーが、当時の日本の現実で「貧乏」を描くことなく同時代のイギリスの状況を描いたことに対して、本書は現在の日本の「貧乏」ではなく、ありのままの現在の日本の「貧困」を描写しようとしている。そしてその試みは私の思うところ、きわめて深いレベルで成功している。

 本書の出会い喫茶調査(時間的にも地域的にもかなりのサンプル収集と本書で明記されている丁寧なバイアスの排除、意識化の手順はそれ自体見事な証言の記録だ)は、ひとことでは片付くことは到底無理だ。そもそも著者の研究動機が、出会い喫茶での売春(ワリキリ)をその複雑性を明示化し、それをなんとか客観的な尺度を用いて腑分けしていこうというフィールドワーク、実践的な手法に基づいている。

「売春はいつも、個人の心の問題などに還元されてきた。政治や社会の問題として語られるときは、包摂ではなく排除の対象として、セーフティネットではなくスティグマ(烙印)が必要な対象として、生命や人権の問題としてではなく風紀や道徳の問題として、売春は受け止められて続けてきた。これらはすべて、とても凡庸で退屈な、無慈悲さに無自覚なクリシェ(常套句)だ」(13頁)。

荻上さんはワリキリを上のようなクリシェで片付けるのではなく、社会と個人との複雑な連関(類似と個々の相違、その相互の絡み)を実践的にみていこう、そして「ワリキリ」を社会が取り組むべき問題と認識するならば(価値判断の次元では、ワリキリは問題ではないという意見も排除しない慎重さを荻上さんは保持している)、その解決はこれらの複雑な連関を十分に意識すべきだ、と主張している。

「この社会はとても脆弱なもので、いかにも頼りない。だからこそ彼女たちは、生き延びるための手段として、ワリキリを選択した。彼女たちの人生には、とても複雑な物語である。ただ、物語は一人ひとり異なるけど、その展開などは似通っている部分も非常に多い」

 似通った部分(共通性)も異なる部分(個々の物語の相違性)もきっちりとした調査であぶりだされていく。荻上さんは取材ルール(端からルール…取材対象をえり好みしない規則など)を明確にし、その上で100人を優に超えるワリキリを行った女性たちへのインタビュー、3000人分以上のデータ、100人を超える買春男性の取材、出会い系喫茶の運営サイドへの聴取(特に出会い系喫茶の創始者といわれる大阪ツーバーなんばの福田氏へのインタビューは本書の最も迫力のあるワンシーンだ)を行なうことで、このワリキリの共通性、相違性、そして社会問題とみなしたときの対処の方向を明瞭に描いている。

 具体的な点はぜひ本書を読んでほしいのだが、例えば「なぜワリキリを彼女たちはするのか」という問いに対して、荻上さんは作業仮説として、本書の副題にもなっている社会的な斥力と社会的引力を用いて概念図式を提供している。

 社会的斥力(社会から排除される力)の要因は様々だ。頻度の高い要因(精神疾患、教育からの排除ー売春買春側も学歴が低いー、DVの経験など)があるが、その要因も自体も個々人のレベルでみると実に多様性みち、相互に入り組んで大きな斥力を形成している。そしてワリキリ側への社会的引力も同様だ。頻度の高い要因(時間単位当たりの高収入、自由出勤、バックに取られない仕組みなど)が存在し、彼女たちをひきつけるが、実際にはそのひきつけられ方も一様ではない。

 本書では、個々の女性たちのエピソードを通してこのn次元の社会的な斥力と社会的な引力を、その現代の肖像として力強く、しかし筆致は優しく、つまりは強靭に描いているのだ。

 先に荻上さんはワリキリが社会問題として見なさない見方も排除していないと書いた。これは問題を放置する態度ではない。むしろ議論しようぜ、という挑発的な態度なのだ、僕やわれわれに。そして社会問題としてみなすならば、少なくとも以下のことは共通して理解しようじゃないか、とも提唱する。

「では、これから僕たちは、どこに向かえばいいのだろう。その答えはすでに出ているはずだ。n個の社会問題の数だけn個の処方箋。n個の排除の数だけn個の包摂を。買春男たちに彼女たちを抱かせることをやめたいなら、社会で彼女たちを抱きしめてやれ。そうすれば事態は幾分、マシになる。彼女たちの売春、それは僕たちの問題でもあるのだ」。

彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力

彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力