赤松要の生存権の社会政策論

 福田徳三の生存権の社会政策を継承する、赤松要の生存権の社会政策論についてのメモ書き。

 基本文献は、赤松要「「生存権の社会政策」論争」(『一橋論叢』第42巻第6号539−557頁)が中心。以下で特に参照しなかったが、赤松要の『ヘーゲル哲学と経済科学』(同文館)ももちろん重要。

 赤松は、大正期の「生存権の社会政策」をめぐる論争を、福田徳三と左右田喜一郎の両者の対立から整理している。その上で、彼自身の「総合的弁証法」の立場から生存権の社会政策の基礎付けを行った。

 福田の生存権の経済学的基礎付けは、人の生存という「自然的事実」の国家による「認承」と、生存権を認めることが社会の生存からいって望ましくないとするマルサス自然淘汰との対立、という問題を巡るものであった。

 左右田はこの福田の「生存権の社会政策」(生存権を国家に認承させること)は十分な政策的基礎を有していないと批判した。左右田の批判は、福田は人の生存という「自然的事実」=Seinから生存権の認承=Wertを求める。しかし「SeinからWertを導き得べしとの論理上の連鎖は有得ない」。そのため福田自身も生存権の認承の基礎として、「その事が社会の生存に取って必要であると云ふこと」を要求している。

 しかし「社会の生存に取って必要」という価値(判断)と、他方でそれと対立する「社会の生存に取って不必要」というマルサス的淘汰に立脚する価値(判断)も考えられる。このことから「具体的」な価値判断の基準はどれも経済政策・社会政策一般を基礎付けることはできない。(赤松によれば)左右田は、「経済政策はただ経済的文化価値という無内容な価値基準によってのみ科学的に可能だということに他ならないであろう」、そして生存権肯定・否定いずれの価値判断が正しいかを決定する上で、「この一般的価値形式」は「無力」である。これは左右田が福田の生存権の社会政策が十分な経済的基礎を有していないことを指摘したと解釈できる。

 赤松は、福田の生存権の社会政策論を、左右田の批判を念頭に置いて再解釈する。まず、人々が現に生存しているという「自然的事実」を福田が強調しているのは事実であるが、これは必ずしも左右田が批判してように「SeinからWertを導き得べし」とう考えには拠ってはいない。なぜなら左右田のようにSeinの問題としてではなく、福田は社会的必要というWertの問題として生存という「自然的事実」を考えているのである。言い方を換えると、すでに生存権を社会が必要であると見做しているために、人々の生存(権)は実現されているし、する方向にあるといえるのである。

 赤松自身の表現を借りれば

「しかし生存権は社会の各員が安心して働けるために必要だということもでき、極貧と早死とを近代社会から除くために、また各員が人間に価する存在であるために生存権は必要であるともいえるのである。すでに述べたようにマルサスの人口法則よりすれば生存権は不必要であり、人間に価する存在という近代的な社会的要求からすれば生存権は必要なのである。そして後者の必要論が勝利を占めることによって、生存権が実現する情勢となってきたのである。必要のあるところにSollenが求められている」(551-2)。

 福田と左右田を赤松の議論を利用して簡単に対照させると

 福田…生存(権)の「自然的事実」→社会的必要の反映(社会が不安定化しないための要求)→生存権は社会政策の基礎をもつ

 左右田…生存(権)の「自然的事実」への注目→SeinからWert出でず(=生存(権)の問題圏からの排除) →一般的文化価値が社会政策(経済政策)の基礎。

 ところで福田自身は生存権の社会政策を、赤松が断言したように「すでに述べたようにマルサスの人口法則よりすれば生存権は不必要であり、人間に価する存在という近代的な社会的要求からすれば生存権は必要なのである。そして後者の必要論が勝利を占めることによって、生存権が実現する情勢」とするだけでは十分ではなかったようである。もちろん福田も歴史的な生存権認承の流れが、生存権の肯定に寄与すると認めてはいる。しかしマルサス的「社会的必要」=生存権否定論と生存権肯定論のアポリアは、福田の課題のひとつとして残る(その解決策のひとつが戦略的不可知論)。

 ところで赤松要自身の「生存権の社会政策」論は以下。

 赤松は、政策目標は歴史的で、具体的価値を持たねばならないとする(×左右田の一般的文化価値)。その意味で福田の生存権の社会政策論側ともいえる。

 赤松の左右田批判は次の二点

1) 人間の存在はwantの状態=自然事実。wantは欠乏と同時に欲望の矛盾した状態でもある。「欠乏の矛盾または否定を媒介とする願望または欲望が人間生存の本質ということもできる。そしてこの願望こそ人間生活に内在する価値意識であり、私の直観的価値とよぶところのものである。この意味において人間生存は存在であるとともに価値的である」(553)。

 左右田は人間生存をSeinとしてしかみていないが、福田も赤松もともに人間存在をSeinであるとともにwert的であるととらえる(福田よりも赤松がより明確化)。

 「このような人間生活の内部から湧出する直観的価値が歴史の種種の段階において種種の社会的動向となり、社会的要求となって現われ、その時代の追求する社会的目標となるのである」

 さらに生存権の社会的必要 と マルサス的淘汰の社会的必要 との優劣は、この社会的動向が歴史的段階とどの程度適応しているかという客観的観点から決定される。赤松はこの観点から生存権の社会的必要が客観的条件を満たしていると判断している。下の2)を参照。

2)生存権の社会的必要 と マルサス的淘汰の社会的必要 との優劣について、左右田の一般的文化価値はなんらの決定にも寄与しない。赤松の解釈では、福田の方はこの両者の総合である。「福田博士はマルサス人口法則はさほど厳密な法則ではないということ、また生存権は各員の最低限の人間的存在を保護せんとするものであり、その均等条件の上でなお適者生存の法則性が働きうるものであるとの考察から生存権の確立を主張されるのである」(554-555)。

 赤松は1)の客観条件から、「時代の経過によってマルサスの人口法則は大きく変化し、一方に出生率、死亡率、並に自然増加率は先進国において著しく低下し、他方に人口扶養力としての生産力は大きく増大した。この客観的動向において社会保障制度はようやく拡大され、すでに生存権も先進諸国において半ば実現される状態にある」(555)。

3)一般的文化価値は無内容なものとはいえないのではないか? 左右田は文化主義を抱懐し、他方で平等主義を「文化の帰趨」とはみなしていない。「もし文化主義が他の主義と対抗し、これを批判する立場をとるならばそれはすでに具体的価値であり、そのいうとことの普遍妥当性は失われるのである」(557)

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