三重野康元日本銀行総裁は、誰に対して「平成の鬼平」だったのか?

 三重野康日本銀行総裁がお亡くなりになりました。謹んでここに哀悼の意を表します。また各メディアは彼の業績に「平成の鬼平」とつけています。いままで私(たち)は、三重野氏の生前の業績について、以下のような評価を下していました(2001年当時。いまも同じです)。簡単にいえば、彼は90年代からいままでの日本国民の生活と生命に対して「平成の鬼平」だったと思います。

「89年に「日銀プロパーのエース」であった三重野康氏が日銀総裁に就任し、断固たる「バブル潰し」の姿勢を明らかにしたとき、マスメディアは三重野氏を「平成の鬼平」と持ち上げた。確かに、三重野氏の手によってバブルは完全に潰されたが、日本経済はいまだに、その結果としての資産デフレの悪影響に悩まされている。にもかかわらず日銀は、意図的なバブル潰しによって金融ショックを自ら生み出した責任も、バブル崩壊後の腰の引けた金融緩和措置によって資産デフレとデフレを事実上放置したことの責任も、まったく認めようとはしていない。三重野康氏の日銀総裁時代の講演録(『日本経済と中央銀行東洋経済新報社、1995年)、とくにそのなかのバブル崩壊後の講演内容は、その点できわめて興味深い。そこから垣間見えるのは、「どのような資産デフレが起きようとも、再びバブルを引き起こすようなことだけはしない」という、強固なというよりも頑迷きわまりない意思である。実際、93年から94年にかけての三重野氏の講演内容の主眼とは、眼前に生じている不況に金融政策当局としていかに対応するのかではなく、「バブルをいかに再発させないか」なのである(例えば94年2月22日の講演「バブルの背景と教訓、長期的な視点からの政策運営の必要性」参照)。それは、資産デフレやバブルがいかに深刻化し、失業率がいかに高まろうとも、再び資産インフレのリスクを生み出すことよりははるかにましだという、90年代の日銀の政策的スタンスを、まさしき象徴するものである。その意味では、資産デフレとデフレは、日銀的な価値基準の中では、みずからの政策の失敗ではなくむしろ「成功」なのかもしれない。しかし、中央銀行がこうした過度な反インフレ=デフレ許容的価値基準に基づいて行動することの国民経済的な損失は、極めて明白かつ重大である。それは具体的にいえば、需要不足による失業の拡大と、それによる所得の喪失である。ある推計によれば、90年代における金融緩和の遅れによって生じた日本の所得損失の累計は、実質で400兆〜800兆にものぼるといわれる。この所得の損失はもはや二度と戻ってはこないが、もうひとつ戻ってこないものがある。それは人々の「生命」である。池田一夫・伊藤弘一氏の研究によれば、景気変動と自殺者数との間には明確な相関がみられ、不況時には自殺者数が約30%程度増加するという。実際、90年代末の男子自殺者の数は、80年代末のバブル期と比較すれば、ほぼ倍増している」(野口旭&田中秀臣構造改革論の誤解』2001年東洋経済新報社、169-171頁)。

 マネーストックM2の三重野総裁時の極端な減少とその後の大低迷。

 現在に至る日本の大停滞は三重野時代の日本銀行政策に始まり、その三重野的な遺伝子をもっとも体現しているのが、いまの総裁白川氏です。これ以上の国民の生活と生命の損失を許してはいけないと、三重野氏の死を前に思いました。

構造改革論の誤解

構造改革論の誤解