荒木飛呂彦『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画』とWalking Dead

 すでに多くの賛辞が寄せられている本書である。いきなり余談だが、二年前にメビウスが日本にきたときに、はじめてリアル永井豪氏とリアル荒木飛呂彦氏を目撃したことがある。二人ともあまりにも年齢からいって若すぎる。荒木氏は30年前と変わらない。永井氏にいたっては40年前と変わらない。自宅の地下室に永井1号、2号とダミーがいないかぎりありえない。そのリアル肖像の時間のとまりぷりは十分にこのふたりがホラーの世界の住人であることを立証していると思う(ほめてるので許してねw)。

 さて本書は感動作『プレシャス』(実はみてないw)が、生き地獄をみせている点でホラー映画でもある、という新解釈を提起して刺激的に始まる。『エクソシスト』以降の70年代のホラー映画を全部で10カテゴリーに分けてそれぞれ語っているものだ。荒木氏と外見は違うが(老化がわりと早いというホラー現象に悩んでいるw)、ほぼ同世代(荒木氏が一学年上の61年生まれ)なのでセレクトしている映画も非常に納得がいくし、同時代的にみているものばかりだ。

 しかし10カテゴリーにホラー映画を区分されて気が付いたのだが、僕は冒頭の1)ゾンビ映画、2)「田舎に行ったら襲われた」系ホラー、3)スティーブン・キング・オブ・ホラー、4)SFホラー映画、5)悪魔・怨霊ホラー(ただしJホラーは抜かす)、6)ホラー・オン・ボーダーに傾斜していて、ほかの分野、特に『13日の金曜日』や『ハロウィン』に代表されるビザール殺人鬼映画はまったく見ていないし関心もないことだ。アニマルホラー、構築系ホラー(『キューブ』だけは見た)、不条理ホラーもほぼ関心がないようである。このバイアスは田中の深層心理をあぶりだすにはいいかもしれない 笑。

 さて本書はガイド的な役割を果たすのだが、荒木氏のホラー映画の概論的な見方と各論的な見方があいまって非常に説得的なホラーの美学、ホラー映画を愉しむ美学とでもいうものが提起されている。

 概論的な見方というのは、東日本大震災に直面した子供たちが「地震ごっこ」をしていたりする。それをやめさせることではなく、人の心の痛みを考えることを大人は伝えるべきだし、また子供のそうのような行為は自らの恐怖を「癒す」ための本能的な行為かもしれない、と荒木氏はするどく突いている。そして

「僕はやはり、「恐怖」を表現するあらゆる芸術行為は人間にとって心や文化の発展に必要なのだと思います。そして僕はそうした行為が、後の時代に振り返れば、結果的には文明の発展にさえ必要なのだと思っています」227頁。

 とホラーの文明史観とでもいうべきものを提起している。その見解は正しいと思う。

 この荒木氏の骨太いのホラーの概論があってこそ、各論、例えばゾンビ映画に対する次のような包括的な“見識”もいきてくるのだろう。

ゾンビ映画にルールがあるとするならば、それは「平等・無個性なゾンビたちにリーダがいてはならない」と考えているからです。それ以外は動きがゆっくりでも速く走ってもいいし、また頭を撃たれて死ななくても、人間以外の動物を食べてもいい。僕はそれを許します。略 ゾンビの本質とは全員が平等で、群れて、しかも自由であることで、そのことによっつてゾンビ映画は「癒される」ホラー映画になりうるのです」61頁。

 最近、アメリカのテレビドラマの『ウォーキング・デッド』を見た。これはゾンビ映画の最高傑作だろう。そこでは人間のエゴとエゴのぶつかりあいが、すでにエゴをもたないゾンビたちに襲われることでかえってクローズアップされている。他方でまた、荒木氏のいうようにゾンビ、すなわち「死」というものを疑似体験することで、その恐怖の前には人はみな平等であり、なにものにも拘束されていない(死以外には)、というメメントモリこそゾンビ映画の「癒し」と恐怖の根源であることがわかる気がする。

 荒木氏のこの本は卓見にみち、また読みやすい。ゾンビ映画以外の各論でも、例えば『悪魔のいけにえ』とか『ミザリー』とか『ヘルレイザー』とか、なるほど!と思わせる意見が多い好著である。

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)

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Walking Dead: Season 1 [DVD] [Import]

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