ルビコン河を渡るには、どこがルビコン河なのか知っていなければならない(?):稲葉振一郎「震災/原発事故後の「政治」」

 時論を若いうちからやることは研究者としては自ら死刑宣告を告げるようなものだと思う。例えば、僕は週刊誌の取材も喜んでうけるのだが、いまから10年前にある(学界ではそこそこ権威のある)老教授は、僕のコメントが掲載してある雑誌をみて、「こんなポルノまがいの雑誌に載るのか」と吐いて捨てるようにいった(なかなか本人=僕の前でいうのですからこの老教授の気骨を誉めるべきでしょうね)。

 まあ、確かに(吊革広告にあるような)日本の週刊誌はポルノぽい写真も掲載されているが、それでも時事的なテーマを見る上では非常に意義のある媒体だと思う。ちなみに僕はそんな週刊誌の世界が大好きであるw。それに時論を書く、特に書き続けることには特有のスキルと経験が必要だと思う。これは日本のような税金を分捕ることが学者としての使命みたいな世界ではまったく無視されているけれども、時論もあるいは本格的な研究でもマーケットでモノになることは、僕には税金を分捕ることで評価されることよりも格段に素晴らしいことだと思っている(それに税金=文科省のなんたら研究費などを利用しないということは経済的にもいいことじゃないだろうか?)。まあ、いつものことでだいたい経験と知識のない人ほどマーケットで活動が続くことを軽視しがちだと思う。

 ちょっと話題がずれたが、10数年前に時論を本格的に書くつもりになったときの環境は、上の老教授みたいな人がわりとまわりに多かった。いまはほとんどいないんだけど、それは僕がそういうザ・老教授の世界から離れているだけで、ザ・老教授の世界はきっといまも世界のどこかでず〜っと続いてると思う(でしょ? 笑。 そういう世界の中では、時論を書く、しかも書き続けることは、10数年前の僕には「ルビコン河を渡る」みたいな覚悟がいた。

 ところが10数年たって気がついたことは、やはりそんな「ルビコン河を渡る」なんて決意はかなり大げさだったし、あのときは(そして今もだけど)どこがルビコン河なのかわからないってことだ。かっこよくいえば(本当にぜんぜんかっこなんかいいはずもないw)、ずっとルビコンを渡る「賭け」をし続けているともいえるけど、やはり実感としてはどこが本当の正真正銘の賭けを行うルビコン河なのかまったくわからないことだ。ひょっとしたらもうとっくに自分でできる最善の賭けは気がつかないうちに終わってしまっているのかもしれないし、あるいはまだ先に待っているのかもしれない。できれば、「これがルビコンだ、さあ、渡れ」と教えてくれる人がいればいいんだけど、どうもそう親切に人生はできていないようだ。でもそれは時論を書くということだけではなくすべてにおいて人生はまあ、そうだといえばいえるのかもしれない。

 たぶん僕が主に相手をしているのが、20年もちんたらゆっくりと続いている大停滞であり、リーマンショックや大震災やいまのアメリカ発といわれるwデフォルト契機の円高直後の誰がみてもわかる激しいどか〜んとした現象(もちろんこれも含んでるけど)じゃないからなのかもしれない。

 そんなことを稲葉さんの次の記述をみて思った。

その度合を正確に見積もり、今後の動向に対して可能なかぎり正確な予想を立てよう、と普通の誠実な科学者の多くは考える。しかし現時点においては事態はまさに進行中なのであり、分野によっては充分に正確なデータなど望むべくもない。不十分なデータをもとにした推論は、たとえ最大限誠実に厳密に行われたとしても、多数の論者のあいだでの食い違いを生み出さざるを得ない。そのような状況下では、学者もまた自ら政治的責任を引き受けて「賭ける」しかない。

 いまの話の延長でいくと、僕にはなんだか10数年前の自分の考えを読んでいるような遠い感じがする。