関東大震災とアダム・スミス

 この産経新聞の記事に紹介されているように、関東大震災の起きた年は、アダム・スミスの生誕200年で日本の学会は盛り上がっていた。その記念する会合で、アダム・スミスとセキュリティについての見解を、大震災のときに詳細な被災民調査をした福田徳三が報告している。この福田のアダム・スミスのセキュリティ論が彼の被災民調査につながったとみることは許されるのではないだろうか。以下は、福田のスミス論の概要である。今日的な観点からも興味深い。

スミス生誕200周年記念講演:福田徳三「厚生哲学の闘士としてのアダム・スミス

 スミス解釈の誤謬‥利己主義と倫理説の基礎としての同情

 スミスは人間本性(=自然法則)を表現する手段として利己主義、他方で倫理生活は理性の法則である。その嚮導原理は理性。

「同情といふものは理性の働き、理性が吾々に命じて、汝斯くの如く行為せよと命ずるに従はせるその最も便利なる手段として用ひられるものであります。同情は只手段で倫理生活を支配するのでは決してない」(392頁)。

 スミスを資本主義経済学者の代表としてみて国家の役割を無視したとする意見もあるが、福田によればスミスは上記自然法則と理性法則の調停をはかるために国家の役割を重視。同時に教育、軍事などでの国家の役割も重視。

また理性の命じるままに行動すると社会と軋轢。そのときにどうするか、彼の正義はどう保たれるか。スミスは同情でも、人間性でもなく、理性の最高律=「将来の状態に対する信念、神の命令」にしたがうように行動せよ、とスミスは考えていた。

 つまり自然法則よりも理性の法則の優位をスミスが説いたと福田は考える。自然法則のみを考慮した経済学を「価格の経済学」と福田は称した。それに対して自然法則と理性の法則の調停を図る「第三帝国」たる国家の役割、国家の政策指針としての理性の法則の自然法則への優位を考えたスミスを、福田は「厚生哲学」の闘士と形容した。スミスは、国家の役割を、特にdefense(国防)とsecurity(保障)のふたつの機能として考えていた。

 このセキュリティの内実を福田は必ずしもこの講演の中で明らかにしなかった。福田はスミスの『国富論』の第三篇以下をdefenseとsecurityにかかわる部分だと示唆しているが、他には一般論として「国家の与える所のsecurityといふ所が人間のhappiness幸福という事を構成する」(407頁)と書いているだけである。

 福田がスミスに託して考えたセキュリティとはなんだろうか? それは今日でいうところの「社会保障」と同義なのであろうか?

 このヒントは福田の「価格の経済学」への批判をみておくとわかるかもしれない。福田は「価格の経済学」は、企業者の自由に生産させることで、「必要」以上の財が生産されることに問題があるとみなしていた。

「吾々の日常の経験に於て又吾々の学問的の経験に於て今日の価格経済の働きの結果は、大なる価格、大なる所得は必ずしも大なる厚生を意味して居ない。否却つてそれに逆行して居る事もある。今日の資本主義経済の最も代表的なる形は消費に関係なく只生産して居る。欲望を充たす為に拵へるといふものではなくなくなってしまった、人間に必要だから拵へるのではない。日本国に是れだけの紡績業が必要だから其れだけの紡績業を拵へるといふのではない。(略)彼等が生産するのは之を日本の消費に充てむが為にやつて居るのではない。彼等は只彼等の儲けをより大にしようとして、即ち彼等の得る所の金銭的利益を大にしようが為にやつて居るのである。(略)よりよき紡績を拵へようとか、よりよき織物を出さうとかいふ事は其目的ではない、単に手段である。従って人類の根本の厚生といふ立場から見れば甚だ違つた道を辿りつつあるのである」(419-420頁)。

 福田はこのような厚生の阻害を問題視していたとしていた。上記の国内の「必要」を超える「余剰生産物」の存在がなぜ厚生を阻害するのか。そしてそのような厚生の阻害はどのように防ぐべきか(セキュリティの方策)、福田は必ずしもそれを明確にしなかった。

 このスミスのセキュリティ論を深めるための契機が、彼の震災被災民調査だったのかもしれない。また産経新聞で指摘されているように、また僕の論文でも書いたが、「余剰生産物」には贅沢品への支出(例:文化財やサービスへの支出)は入っているのかいないのか、は福田徳三の弟子である小泉信三にとっては大きいテーマであったろう。ここは日本の文化の経済学の発祥がそもそもこのスミス論文に由来する問題として考察できる可能性を示している、といえないだろうか。