『思想地図』vol.4ー座談会:変容する「政治性」のゆくえーシェリングの分離・融合モデルとの接続ー

 積読解消シリーズもようやくゴールが見えてきましたがw、この本についても感想を書くつもりがだいぶ時間が経ってしまいました。この『思想地図』で興味を持ったのは三点です。宮崎哲弥さんを中心とした座談会、そして宇野常寛さんの論説、中川大地さんの要約とブックガイドで表現された中沢新一です。あとは興味が持てずに読んでません。後者二点はまた今後の話題にしてとりあえずいまは座談会の感想を手短に書いておきます.。

 この座談会に宮崎さんが呼ばれたのは東浩紀氏がいっているように知識人のメディアにおける活動を最も体現しているのが宮崎さんだから。それはいいにしても、そういうわりには宮崎さんの出ていテレビやラジオの番組を対談している人たちがうまくフォローしているとはいえない。逆に宮崎さんから座談会のひとたちを含めてバラエティ番組などにも積極的に出てOJTを積めと説教されている。この意識と行動のギャップは、特に宮崎・東間で顕著なようにも思える。

 以下はランダムな抜き書き(宮崎さん中心)

宮崎:「柄谷行人が1990年代の末に「国家は表象を生み出すが、国家は表象によって生み出されたものではな」という優れて予見的な提起をぶち上げ、その後の政治―社会状況の変化に伴って、「いつまでも表象をめぐるお喋りをしていても仕方がないだろ、仮構にしろ実体的な力(暴力=実力)を認める以外には橋頭保すら築けないぞ」という考えが急速に広まった」

宮崎:民主党の勝利→国民のフィジカルな要求ではなく、むしろ表象分析レベルの問題では?

宇野:「実体とかい離させて、言説の動員ゲーム自体を自己目的化して楽しむことに完璧になれてしまっているからでしょう。したがって、いまのサブカルチャー批評をきちんとやることで、逆説的にそうなってしまった日本の現状をえぐり出せるのではないかというのが、僕の考えです」

宮崎:「それよりも私が興味があるのは、やはり「大衆思想」なんですよ、いかにして大文字の「思想」が大衆に根づき、大衆の生を支える血肉となっていくのかという点。略 もう少し正確に言うと、ニーチェ主義的なポストモダ二ズムが大衆レベルで感覚化するまでになったということなんです。略 ここらは、一頃経済学のほうで話題になった「専門知vs世間知」問題などとも関わってきます。例えば多くの日本人が「構造改革」や「反官僚」に共鳴する背景に、サプライサイドの経済学が大衆レベルにおいて感覚化するまでの浸透があったと言えるのか……といった問題です」


宇野:いまの言論メディアの問題は大衆の無意識といえる思想を宿した文化があるのに、いまだに80年代以前のロジック

宮崎:テレビは粘性が高く簡単には変化せず。それに我慢して若手言論人はかかわるべし。テレビで何をしようとしているかはメタレベルの意図としては仏教者としての立場から、それを証明するために、「ごく一般的な内容のコメントにひとつだけ異なった視点を付け加えることだけなんです。そのたった一点の付加によって「コメントする」」という営為自体を異化、相対化できれば面白いかなと」。


宮崎:若手言論人のラジオやテレビでのOJTの重要性。「あえて挑発的にいえば、東さんの世代やそれ以降の世代のインテリさん達は、自分のシマを守り過ぎている。地面に半径一メートルぐらいの円を描いて、よほどのことがない限りそこから出て行こうとしない」

東:「論壇」の構築をしたい。言論の環境を変えたい。

 さてこの「論壇」を例えばゼロアカなどの営為を通して構築したいという東氏の主張は座談の終わりにでてくる、ロールズ的な「無限の他者への寛容」という態度への批判とリンクさせると面白いかもしれない。また彼は「無限の他者への寛容」を批判し、ローティ的な「要は、何となく近くで共感できるやつを見つけて、あとは少しずつ拡張していけないいと思う」といっている。つまり「近くの他者」への寛容を重視する。
 「いずれにしても、無限の他者への開放性を理念で担保しなければならない時代、それそのものが終わっている。インターネットとグローバル資本主義の最大の思想的功績はそこにある」

 この東氏の「無限の他者への寛容」よりも「近くの他者への寛容」という態度が、社会批評的な見方、あるいは論壇の再構築、彼のオタク文化への共感などの基礎にあるのだろう。

 しかし「近くの他者への寛容」を例えばこのエントリーでとりあげたシェリングの分離・融合モデルを援用して考えると、東が期待している「論壇」や公共性にかかわる問題が、単なる大集団の中で過度に分離した集団化となる可能性を内包している。つまり近くの他者への寛容が、全体の不寛容につながる可能性があるだろう。

 ここでいうシェリングの分離・融合モデルは、人が住居を選択するときに、隣人の存在を非常に重視することが、人々の棲み分けのパターン(分離と融合)に影響を与えるということである。例えばクルーグマンによれば、シェリングのモデルが示した自明ではない二つの点がある。

「第一に、隣人たちの肌の色や文化に対して、それほど好き嫌いが激しくなく、表面上は融合して暮らしているようにみえるが、その好き嫌いの微妙な違いが実際にはきわめてはっきりした分離につながるということである。その理由が、人々の好き嫌いがそれほど激しくなく、「肌の色が違った隣人が何人かいても気にならない。自分が極端に少数派でなければね」」といっているときでも、融合して暮らすといおうパターンは、人々のあいだに時として起こる動揺のために不安定になりがちだからである。第二に、各住民の関心がごく近隣に向いており、自分のすぐそばの隣人についてしか関心がなかったとしても、住民はグループごとに大きく分離するパターンを形成する」(邦訳、30頁、ただし東洋経済新報社版)。

 つまりある人はそこそこ隣人に対して「寛容」であってもそのことが時として大規模な分離をもたらしてしまうということだろう。これは「論壇」の構築でも同じである。周囲にそこそこ受け入れることのできる意見の人間だけを集めるルールが、それを維持すればするほど、結果的に最も排他的な「論壇」を生み出すことにもなりかねない。ゼロアカのような試みも開放性があるようにみえて実は極度に分離した集団を形成してしまっただけなのかもしれない。

 「近くの他者への寛容」がもたらすこのような分離と同様な次元に属する問題として、オタク的な局所化した知識(いいかえると自分の小さいコミュニティの知識にのみ寛容な戦略をもっている人たちともいえる)が、もたらすぼったくれやすさについて、以前下のエントリーで論じたことがあるので参照されたい。

「まがいもの」を売る仲介者、ネット封建制 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080307#p1

僕からみると東氏の営為というのは絶えず閉鎖的(過度に分離した)集団を生み出すという点に親和的な思想に思える。


関連エントリー現代思想の最前線(東浩紀辛坊治郎)から:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090208#p4

NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力

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