マンガモデル論のレジュメ

 12月13日に大東文化大学で報告したレジュメをいまワードで修正してて図表も汚いけど(笑)つけたものを以下にコピペ。ただし下付き英数字なんかはワード文書ではちゃんと表記したりしてるけど以下では面倒なので修正してないかも。一応、未完成なので引用とかする際には僕の了解を得ること。研究目的でワード版を研究者個人で請求された場合は対応します。僕と面識ない方は本名、住所、勤め先(学校)、電話番号を必ずメールで教えてください。いずれが欠けてもお送りしません。面倒にならないかぎり(例:請求者多数とか神経質な対応とかストーカーとかいろいろ)送ります。レジュメなのでグルンステンの本を読んでて、なおかつ口頭の注記を聞いて完全レジュメと思ってください。ほぼ当たり前のことなんだけどたぶんマンガ研究の世界ではここらへんの常識が通用しない可能性があるのでわざわざ注記。

(付記)id:ITOKさんに図表を一部作成していただいたのでそれに差し替え。ありがとうございます!


ティエリ・グルンステン『マンガのシステム』と日本のマンガ批評

2009.12.13 於:大東文化大学
改訂:12月20日ー21日

田中秀臣上武大学ビジネス情報学部)

グルンステンの目的‥‥マンガのモデル化
目的のための手段‥‥マンガの根本的土台を「図像的連帯性」として、その諸段階である「コマ割り」「ページ構成」「編み組み」のそれぞれをいくつかのパラメーターを操作することで最適なモデルをとして組み上げるという「工学」的な発想に近い。例えば「コマ割り」とは、複数のパラメーター(コマ枠、複数コマ枠、余白の処理など)の操作を行うことで最適な結果を得ようという行為としてグルンステンは考えている。これだけだと何のことかわからないかもしれない。本日はこの点を時間をかけて説明する。


図1   マンガのシステムの全体像


1 要素還元主義への批判(コマのレベルより下の要素への還元を批判)
2 イメージと言葉を分離することへの批判(テプフェールの発言への批判)

 グルンステンは、マンガを「イメージによる物語」ととりあえず定義する。その上でマンガを制約する条件として「視覚優位性」をあげる(→物語種のひとつとしての視覚優位種)。

 マンガの基本的土台=図像的連帯性
 マンガはイメージの様々な関係によって構成されている。この関係性を「関節論理」という。他方でイメージは空間を占めている。これをグルンステンは「空間=場所」と名付ける。

 グルンステンの戦略は、空間的・場所的規則による関係に優先権を与えること。同時に制作者の心的形式にこの空間的・場所的規則は従属している(主観的要素の重視)。

 この「空間=場所」は3つのパラメーターによって記述することができる。それは「コマの形」「場所座標」「面積」である。以下でこれを明示的に関数形で表す。

 その前に、グルンステンの方法は仮定を設定し、議論を簡明なものにすることで本書は一貫している(Ceteris Paribusの利用=他の事情をひとしくすると仮定)ことに注目すべきである。例えば彼は次のように書いている。

「つまり「空っぽ」のマンガ、図像的な中味と言語的な中身が消しさられて、ただ連帯関係にある一連のコマ枠から成り立つマンガが想像されるだろう。これこそ一時的に空間―場所パラメーターまで還元されたマンガである」

 次ページの図2にはグルンステンが書いたような「空っぽ」のマンガを例示してある。

図2 ページの中に空っぽのコマ枠があるケース


空間=場所は3つのパラメーター(コマの形、面積、場所座標)の関数として表現できる。

F=F(コマの形、面積、場所座標)

この関数の特殊形を書くと例えば次の第1式のようになるだろう。ここでYtは図でわかるように「ページ」に描かれたひとつの「コマ枠」を表現したものとも考えられる。


第1式


 左の図はX(=コマの面積)が、t(=場所座標)の関数であることを示している。簡単にいうとコマは場所によってその大きさが決まるともいえる。右の図は式1をさらに単純化してaは定数、tの添え字は無視し、YとXが単調変換の関係にあるケースを示している。例えばX(コマの面積)が10平方センチだとして、a(コマの形)が2とすれば、コマ枠は20平方センチのものとして表現される。
もちろん第1式はより操作が難しく、コマの形もコマの面積も場所座標もそれぞれをマンガ制作者が決めなくてはいけない。

 第1式の右の図では、一頁にたったひとつのコマ枠しかないという単純化されたケースを描いている。グルンステンは先に指摘したようにCeteris Paribusの仮定を採用してできるだけ議論を簡単にして論じている。このレジュメでもできるだけ単純化したケースで考える。その最も極端なケースが1頁のコマ枠ひとつのケースである(もちろんページに何も書いていないマンガもあるかもしれないが)。

 さらにページの大きさを所与の値(A)とすると、外コマ枠(ハイパーフレーム)は以下のように定義できる。

 外コマ枠をZとする.
Z=A−Yt
Yt+Z=A‥‥第2式



 グルンステンによれば、外コマ枠もまたいくつかのパラメーターの関数である。例えば「幅」「デッサン、記入物」「自律の度合い」など。以下のように関数形を記述できる。

Z=Z(Z1,Z2,Z3)
Z1は幅 Z2はデッサン・記入物 Z3 は自律の度合いをそれぞれ示す。

「自律の度合い」とは、例えばコマ枠と外コマ枠の境界が判然としないようなもの―コマ枠を突き破ったり、下のコマ枠から人物の手が伸びて外コマ枠をまたいで上のコマ枠にぶら下がるなど、あるいは後で出てくるが、吹き出しがコマ枠と外コマ枠に重なるなどの操作もこの自律性の度合いで表現できる。自律性の度合いが大きければ大きいほどコマ枠はコマらしく輪郭が確定する。例えば映画のフィルムの一連のコマ枠のようにかっきりとした枠組みを持つだろう。自律性が弱まればそれだけコマ枠と外コマ枠の区別はつきがたい。なおZ自体も場所座標の関数かもしれない(Zt)。例えばマンガ家がコマ枠ではなく、外コマ枠の場所を先に決めるという場合もあるかもしれないからである。しかしここでも簡単化のためその表記は省略した。

 さてマンガ家が実際に一頁の中でどのようにコマ枠と外コマ枠を決定するかをみてみよう。以下では議論を簡単にするためにページの大きさAは決まっているものとしよう。さらにコマ枠については、場所座標を落とし、「コマの形」を定数としよう。コマ枠の「面積」だけが独立変数(パラメーター)である。また外コマ枠はコマ枠の従属変数であるとしておく。
これは第1式と第2式から次の第3式を図に描くことになる。

Z=A−aX  第3式(aとAは定数)


 ところが式3だけでは、マンガ家はどれが彼(彼女)にとって望ましいコマ枠と外コマ枠の組み合わせであるか選ぶことができない。なぜなら上記の右の図のように選ぶことが可能な(コマ枠、外コマ枠)の大きさの組み合わせが無数に存在するからである。

よってこれらの無数の点からどの点(=最適な面積)を選ぶかが重要。そこで先ほどの「主観的要素」の重視を想起されたい。マンガ家が内心で計画する物語(これをグルンステンは「物語計画」と名付ける)に、空間の構成は完全に従属する。いいかえるとマンガ家が望ましいと思う選好の体系が明示されなければならない。しかしグルンステンは一般的に「物語計画」や「主観的要素」の重要性を指摘するのみでその選好の体系を明示していない(グルンステンの問題点その1)。便宜的に経済学でしばしば行う選好の体系=無差別曲線(UU‘)を以下に描く。

 無差別曲線とコマ枠関数の接点で望ましいコマ枠の大きさが決まる。例えば上記の右図であれば、コマ枠と外コマ枠の大きさのマンガ家にとっての最も望ましい組み合わせは、(X2,Z2)である。

  ところで空間=場所を関数形で表現できるとして、本書で最も具体的なイメージが難しいのが、「複数コマ枠」であろう。グルンステンは次のように書いている。

「複数コマ枠はそれ自体、複数である。ストリップ(コマ帯)、作品ページ、見開きページ、単行本が入れ子状の複数コマ枠であり、次第に大きく包み込んでいく、コマの増殖していくシステムである。おのぞみならば、作品ページあるいはそれより下位のコマの連合した
単位(半ページやストリップ)を単純な複数コマ枠と呼ぶことにしてもいい。表と裏に印刷されたページが積み重なったもの。つまり本(単行本)は、めくりによる複数コマ枠を構成する」(67-68)。

 複数コマ枠を関数ぽく例示すると以下のように書けるだろう。物語計画の一部とは、この複数コマ枠を最適に選択することに他ならない。
Y=Y(Y1,Y2,Y3,Y4,Y5,Y6‥‥‥,Yn)
例えばこれを以下のように表記することもできる。
Y1+Y2+Y3+Y4+Y5+Y6 +‥‥‥+Yn
例えば、Y1やY2 などは一般的なイメージでは「コマ」だが、Y3 はいわゆる「コマ」のような見かけをもった「吹き出し」かもしれない(下記参照)。

Y1+Y2+Y3 でストリップ(中間空間)を形成するかもしれない。

Y1+Y2+Y3+Y4 で一枚のページを形成するかもしれない。

あるいはY1+Y2+Y3+Y4+Y5 で見開きページを形成するかもしれない。

そしてY1+Y2+Y3+Y4+Y5+Y6 +‥‥‥+Yn でいわゆる一冊の本を形成するかもしれない。

 ここで吹き出し(追加空間)も「コマ枠」の一部である(グルンステンの本の152頁にある『ブルーベリー』の図表参照)。またすべてのコマ枠は場所座標の関数であるが、特に個々のコマ枠が整然と並んでいることを要求するものでもない。例えば以下のように、コマ枠の嵌め込み(図9 165頁)もありうる。



 さてグルンステンは「空間=場所」が分節化=構造化を行うことで、簡単にいえばイメージをもって物語を「語る」ことができると述べている。冒頭のグルンステンによるテプフェールへの批判を参照。

 「空間=場所の諸パラメーターがもっている構造化する能力をあきらかに」する。「それらのパラメーターとは、コマ枠の形、大きさ、そして輪郭、あるいはコマの場所座標、吹き出しの挿入法などである」(200-1)。

 よって物語計画にとつて重要なのは、「意味がイメージ内部にあること」ではない。コマとコマのあいだ、連鎖するイメージが重要。それが「言語によく似た分節=連節を形成する」(202)。

 図10(204頁)の参照

「マンガにおいて物語の連続性はなによりもまずイメージの隣接性によって保証されているのだ」(221)

 これをいいかえると複数コマ枠を最適に選択すること(=コマ割り)がマンガという物語の連続性にとって極めて重要になる。
 実例:『コランタン』の分析(221−229ページ)

コマの最適な選び方→「経済性の原理」(226)に従っている。
 「最後のコマの構図はおそらくもっともすばらしいものだろう。選びとられた視点は馬の進路と直角をなし、これによって主人公たちと敵対者たちのあいだの物理的な近さを正確におしはかることができ、とりわけ磁石の壁にぶつかった騎士と馬の突然の衝撃をより劇的なものにする。さらに、いくつもの衝撃点によって描きだされる垂直線は、コマの真ん中に位置しており、その線がコマを正確に二等分している」(228)。
 マンガのシークエンスの演出はコマ割りの性質を帯びている。
「作品の具体的な物体であるコマは、理想的な分節に応じて組み立てられるのだが、コマ割りがこの分節を決めるのであり、コマ割りによってそれを明確にしなければいけないのだ。実験として(図12)、コマとコマの間に等位接続詞や言語的踝を当てはめて遊んでもいいだろう。それはシークエンスの分節を、つまり関節=論理(arthro-logique)を説明するものだ。こうして、「しかしその一方で」・「すると」・「しかし」・「すぐに」・「ああ!」・「突然」、を当てはめてみると、それらはただの繰り返しで全く役に立っていないかのように思われる。コマ割り、そしてとりわけ演出の効果は、すでに構造化されているものであり、これら暗黙の統辞的操作子がその基底によこたわっているのだ。ページ構成そのものも、ときにこれらの操作子を強調することがある。もしそうでなければ、一連の言表されうるもの(複数のコマ)を、首尾一貫した言表(ひとつの物語シークエンス)変換することは不可能になるだろう。

 ページ構成もコマ割りやコマ枠の選択と同じく、基本的に物語計画のもとでの最適なパラメーターの選択に還元される問題である。

マンガを制作するということは、ページ構成、コマ割り(=部分的関節論理)とそれぞれを最適に決めたものとして実現できる → 多段階の最適化

 グルンステンの基本的な枠組みは、多段階の最適化問題として記述される。彼はこれを「マンガのシステム」と命名しているわけである。

 ところでまだこの多段階の最適化問題=マンガのシステムに、グルンステンは注目すべき二つのサブシステムを導入している。それが「コマ格子化」と「編み込み」である。

 物語計画はマンガ家の心的形式(脳内世界)である。これを具現化するために、複数コマ枠の選択の前に、グルンステンは「コマ格子化」という作業を置いた。いわば機械語を翻訳するOSなのだが、これは実作業では「ネーム」といったほうがわかりやすいだろう(グルンステンはこの言葉を用いていないが)。

 「つまりコマ格子化は、はじめに、そしてたいていおおまかに、複数コマ枠(マルチフレーム)の配置のされかたを決めるものなのだ。作家にとってこの仮の配置が、仕事の枠組み、母型となる。ページ構成とはこれを見直したものだ。つまり、決定された中身と関節論理における他の二つの基本的な行為(コマ割りと、ときおりの編み組み)によって形を与えられるものである」(275)。

 さて編み組み(トレサージュ)である。これは最初に簡単にいえば合成関数として考えることができる。

 まずマンガを「ネットワーク」(=マンガ全体において成立するめくりによる複数コマ枠)としてそれを通時的次元、共時的次元として図示してみる。シークエンスの次元でみるとそれは線状的な読みと親和的である。


 しかしマンガの「ネットワーク」には「超線状的につながってるもの」がある。それを表現するのが編み込みである。
 グルンステンの本の図16の下の用例による編み込みの一例

 「遠隔=関節論理という間接的な手法によって、コマ割りにおいては、遠ざけられ、物理的にも文脈的にも独立したイメージ同士が、ここで突然密接な交信をしはじめるのだ」

 関数で表現すると以下のような合成関数として表記できる。このことひとつのコマ枠は別のコマ枠の関数でもあるのだ。このことがより「マンガのシステム」=最適化問題を数段複雑なものにしている。

Y1=f(Y2)、Y2=g(Y1)、‥‥etc

 グルンステンの問題点その2‥‥グルンステンのマンガのシステムではマンガ家はつねに最適な選択を行うと仮定されている。これは合理的な計算をつねに実現できるという意味で、「合理的なマンガ家」を仮定しているに等しい。

日本のマンガ批評―グルンステン論の観点からー
鶴見俊輔‥‥社会的衛生という価値基準からみた記号としてのマンガ。

「精神の体操として漫画のもつ思想性は、個人の漫画家とそれを好む個々人の関係をふくめて、ある時代の漫画作品の群とその愛好者の群との関係として考えることもできる。その時代の漫画作品は、漫画作家によってとらえられたかぎりでの、ある時代の精神のこりかたの配置図をふくんでいる。もっともこわばった精神状況にある社会は、そのこわばりをやわらげる漫画を様式としてほろぼしてしまう」(「漫画の戦後思想」『鶴見俊輔集第7巻』103頁)。
グルンステンの枠組みでいうと鶴見の関心は主に「物語計画」を規定している漫画家のよってたつ価値基準、価値判断に関心があるように思える。

山口昌男‥‥漫画の面白さとしての「空白のリズム」への注目。コマ割りの飛躍と断絶。
のらくろ』シリーズにおけるふたつの時間・空間への注目。

「発端から結末まで読者が期待する一定の冒険譚の継起を、物語の時間構造としてとらえることが出来る。この時間は敵を含む空間においてつくりあげられる。従って敵の役割・行動(たとえば挑発・危うく打ち負かしそうになる程度の智勇・ヒーローの勝利のきっかけと与えるに十分な人のよさ・間抜けぶり)は物語の時間構造の中で規定される。こうした物語の時間に対して、集団の中の時間がある。この時間はもっぱら猛犬連隊の位階で規定される。ちょうど人の一生が通過儀礼という時間のヒエラルキーで構成されるように、師団長から二等卒にいたる位階は、行動のパターンを分配する機能を帯びている。この時間はのらくろのサイクルを通してゆっくりと進行する」、「つまり、位階の時間の秩序が低位にあるときは、のらくろはより大きなドジの可能性を持っている。広いドジの可能性をもっていることは、より広い時間・空間に結びつく可能性を持つということなのだ(『のらくろはわれらの同時代人』48頁)。

のらくろを通してみた反神話、反日常生活→「のらくろの持つ解放感は、こうした日常生活神話の破壊能力に由っている。駄洒落・ドジを含むギャグはこうした主人公の反神話行為を補強する」(同、49頁)。

 グルンステン論の観点でいえば、山口の関心は鶴見よりも一歩先に行く。物語計画とその実現形態である作品の時間・空間の「構造化」された諸点を明るみにしている。

四方田犬彦‥‥マンガのモデル化の最初の試み(『漫画原論』1994年)。「今日の日本の漫画では、画面がコマの集積ではないことは、すでに自明のこととされて久しい。一枚の半面をいかに独創的に分割し、そこに効率のいい説話法を導入するかという問題に、ほとんどの漫画家は忙殺されているというべきだろう。とはいうものの、この画面の成立こそが、単に方法論的な挿話などではなく、実は漫画がその興隆の初期において体験した、重大なイデオロギー的事件」(同37−8頁)。

四方田は、マンガのページ構成、コマ割りが、マンガ家の「物語計画」による最適化の結果として表れていることを指摘することで、グルンステンの「マンガのシステム」論の日本における先駆をなす。コマの配分、コマの不規則性、オノマトペの分析など一連の議論が「物語計画」による最適化行為として描かれている。他方でコマに描かれたものー登場人物の表情(有名な言葉:同じ顔はふたつない)論、社会的受容論などの異なる側面を一括して取り上げている。

夏目房之介‥‥日本のマンガを中心にしたその独自性を明らかにすることに勤めている。例えば少女マンガにおけるコマや外コマ枠の自律性の低度など。また日本マンガの特徴としての時間の空間化、あるいは言語の空間化という事態を説明している点が注目できる。
「また図12−6のように、本来時間を分割するものだったコマをてんでんばらばらにすることで、時間のない時間、錯乱した状態を表現したりします。あるいはコマの枠が消えていってしまうことも、しばしばです。前章で述べたように、時間分節の働きを緩めた分、空白の部分に何かを語らせようとするのも特徴的です」(『マンガはなぜ面白いのか』178頁)

 しかし他方でこれらの特徴が日本的という独自性への注目として語られてしまい、それが一般的なマンガのモデルに至る経路を事実上閉ざしている。グルンステン議論では、コマのてんでんばらばら性も、コマ枠の消去もそして空白の活用も単なるパラメーターの値の問題でしかない。

竹内オサムの同一化技法‥‥残念ながらこの議論はまさにある限定された物語計画が選ぶ最適化の話でしかなく、最適化問題の演習問題のひとつにしかすぎない。しかも最適性という観点もない。

伊藤剛『テヅカ イズ デッド』‥‥日本のマンガ表現論の最高峰。キャラ論に特徴的だが、グルンステンに比してコマなどに書かれたものに依存した議論を行っている。キャラはマンガ固有のモデル化にとってどこまで重要なのか、という論点はあるだろう。

 さらに「フレームの不確定性」(コマの自律性の問題→石森章太郎の『龍神沼』)をめぐる議論をみると夏目の日本独自論を継承していて、それが単なるパラメーターの値の大小でしかないことに気がつかない。いいかえるとコマの自律性や外コマ枠の自律性は、最適化問題として把握する必要があるが、夏目と伊藤ではその最適化が、「日本」という文脈で行われているのかもしれない(社会的な決定論に事実上なっている)。

 「もっといえば、マンガでは「フレーム」は厳密には「コマ」と「紙面」のどちらに属するものか、一義的に決定することができない。この不確定性こそがマンガをマンガたらしめており、かつ「とらえにくさ」をもたらしている。さらにいえば、これが映画との決定的な差異なのである。そして、これまでのマンガ表現論が明言してこなかった特性である」(200頁、下線は田中。一義的にやろうと思えば決定できる)。

 確かに伊藤がいうようにコマの自律性の問題=フレームの不確定性は誰も指摘しなかった特定のパラメーターの値であったかもしれない。しかし問題なのは、最適化問題自体の構造であり、その帰結としてでてくる特定のパラメーターの値が真の意味で重要かどうか、まさに最適化問題の構造から判断されなくてはならないだろう→ディープパラメーターの問題へ。

泉信行漫画をめくる冒険』‥‥やはり夏目―伊藤同様に一種の社会決定論であり、最適化問題を解いた結果として、その表現論が展開されているわけではない。「身心離脱」の議論など。

終わり(当日はこの他にも図表をいくつか用意し提供した。また板書も頻繁に利用した)。