三浦梅園、福田徳三、河上肇、そして貨幣価値

 なんかここ数カ月、田中のキーワードは3つ。日本銀行勝間和代、そしてシノドスです 笑。というわけで夏に行ったシノドスの7人限定参加の方のセミナー「ニッポンの意識」の単行本収録にむけての作業が進行中です。以下はそのセミナーのときにレジュメにはありました時間の関係で話すことはなかった部分を掲載しておきます(草稿ですので実際の掲載とは異なります)。この「ニッポンの意識」をうけて行ったのが一日セミナーということになります。この7人セミナーを含んだ単行本は近いうちに出ると聞いてますのでお楽しみに。

*三浦梅園をめぐる論争

 この時期の河上と福田の論争というか対話として重要なものに、江戸時代の経済学者三浦梅園(1723-1789)の『価原』(1773)をめぐる評価があります。河上は、「三浦梅園の『価原』及び本居宣長の『玉くしげ』に見(あら)はれたる貨幣論」(1905/明治38)という論文を書き、他方で福田は「ボアギュベールの貨幣論と三浦梅園の貨幣論」(1910/明治43)を書きます。
河上は、梅園は自足経済(農業中心経済)から貨幣経済(農工商プラス有閑階級)への移行をとらえたと解釈します。梅園は農業が経済の基本と考えるが、他方で貨幣経済の進展のために農業経済が衰退することを問題視していました。ところが梅園は、ほぼ同時代人の本居宣長のように、貨幣の使用を制限し貨幣経済の事実上の禁止、とはしなかった、と河上は指摘します。むしろ梅園は貨幣経済の適切な制御を目指した、というのです。これは他方で、河上自身の視点とも重なってきます。貨幣経済の進展はやむを得ないが、他方でそれが国家(共同体)を破壊するものであってはいけない、というのが河上の考えでこれは梅園の中に河上が見たものでもあるわけです。そして農業経済、というか農業に事実上立脚している共同体破壊の主因は「遊手」という有閑階級の存在である、と梅園は指摘しました。つまり、言い方をかえると、河上にとって三浦梅園は「日本の独特の国家主義」(日本共同体)のイデオログーであったわけです。また、河上は、梅園の貧困論にも注目しています。つまり自足経済が崩壊し、貨幣経済が有閑階級の強欲によって進展してしまうことで、労賃の低下=「貧困」が発生していると梅園が考えていたことに注目します。この江戸時代のワーキングプア論への注目が、河上の後の代表作『貧乏物語』への途を用意します。
他方で福田ですが、河上ほどの大胆な三浦梅園解釈はありません。河上の三浦梅園論にに対して貨幣数量説の一解釈を示唆するに留まります。むしろ福田と左右田喜一(1881-1927)との対比が、福田の梅園論に読み取れることの方が興味深いと思います。左右田は大正時代に思想界を代表した論客のひとりでしたが、もともとは福田の弟子であり、ドイツに留学しているときに貨幣がかぜ価値をもつのか、なぜ貨幣というものが存在しているのかを考えた人でした。
貨幣の発生をめぐる左右田と福田の対立を整理してみると次のようになります。左右田は、近代的な諸個人がネットワーク(=評価社会)を結ぶことで貨幣が発生する、と考えました。他方で、福田の立場は、貨幣は国家の権能者が与えたものであるとします。福田は、「御祓と貨幣の関係」(1910)という論文の中で、貨幣は共同体の権力者や神格化された存在からの贈与に起源すると説くわけです。ここにビュッヒャー的な経済単位発展史観の影響をみるのはたやすいでしょう。つまりはじめ共同体の権力者が貨幣を発生させたのだが、経済組織が拡大し、また個人が経済主体として確立するに従い、その権力者の権能が貨幣の起源であったこともその意味を変化させていく。貨幣は国家の権力に由来はするが、次第に国家と個々の経済主体が緊張関係をもつ社会という場で、その貨幣価値を問われる、というのが福田の貨幣論の射程でしょう。そうであるならば、この貨幣価値(インフレやデフレ)をうまくコントロールして、社会の必要に答えることが重要なのですが、後で述べますが福田の貨幣価値の社会化というプログラムは、清算主義という足かせの中で事実上破たんしていくわけです。

 三浦梅園の原典、福田と河上の梅園論などは以下の書籍にすべて収録されてます。このときの『環』の特集はとても貴重な情報を収録していますので在庫切れになる
前に保存されてはいかがでしょうか。

〔学芸総合誌・季刊〕 環 Vol.3(2000 Autumn) 【特集】貨幣とは何か (環 ― 歴史・環境・文明)

〔学芸総合誌・季刊〕 環 Vol.3(2000 Autumn) 【特集】貨幣とは何か (環 ― 歴史・環境・文明)