ティエリ・グルンステン『マンガのシステム』と日本のマンガ批評の現状

 日曜の研究会で原正人さんが持参した待望の翻訳。僕は英語版を持ってて少し読んだけど挫折。この翻訳はやはり待望のものでしょう。以下はあるmixi日記に書きこんだコメントをほぼそのまま再録したもの。この本はたぶんいまの日本のマンガ批評の文脈ではなく、それこそ稲葉振一郎さんや僕のようにマンガやマンガ批評を少しは読んでて、なおかつ(モデル自分で組まなくてもw)最適制御理論を実際に解いたことがある人がよくわかる本ではないか、という気がする。その理由も少しだけ下に書きました。

 以下、mixiから引用した僕のコメント(一部ブログ用に修正)

 昨日一気に読んだけど、英語版は途中で挫折。しかしこの日本語版は非常にわかりやすく読めました。野田さんに感謝。で、この本は記号論的な用語を連発しているけど、僕は一種の制御工学のアイディアで一貫した本ではないかと思う。工学系や経済学では標準の最適制御理論と発想が完全に一緒ではないかと思います。マンガ批評の現状がどうなっているのか知らないけれども前作でも感じたけれども非常に理系的な発想の人だと思う(前作『線が顔になるとき』でも顕在化していた)。

 いってみれば中央計画者(物語計画)がいくつかの制約条件(視覚の優位性)の下で各種のパラメータを制御して、一定の解(読者、制作者の満足の最適化)を求める連立方程式の体系(システム)として読めるということです。

 この大まかな図式さえ理解していれが、あとは何が制約条件か、目的関数は何か(ここが本書では説明が不十分かもしれない)、各種パラメータが時間変数か空間変数かなどか、どんなパラメータが存在するのか、などを意識して仕分けしていけば、そんなにこの本は難しくはないでしょう。

 例えば伊藤剛さんのご著作『テヅカ・イズ・デッド』とこの本はかなり対照的なものではないか、というのが僕の考えです。グルンステンがこの本の冒頭でも書いてますが、一種の公理的な体系を採用してますので、例えばコマ、複数コマ枠などすべて単なるパラメータであり、なんら特権的な地位を持ちません。

 例えば、「コマとは何か」「キャラクターとは何か」「物語とは何か」という根底を問うこと自体が、このグルンステンの体系ではあまり意味をもたないと思います。

 特権的なパラメータはなく、あるのは一群の動学的な方程式群(システム)だけですね。伊藤さんの本について、よく僕は口にするのですが、読んでいくうちにわからなくなってとても難解に思えます(グルンステンの本の方が明快です)。というのは、たぶん特権的なパラメータみたいなものがあって、方程式(システム)の解が求められないからだと思います。

 あと上の解釈でたぶんいいと思うのですが、この邦訳の最初の50頁ぐらいを読んだあとで、この邦訳の副題「コマはなぜ物語になるのか」というのをみると、これはある意味で致命的なミスというか無理解ではないか、と思います(原書には副題はついてないので日本版当事者の判断ではないか、と思う。間違ってたらすまん)。

 上にも書きましたが「コマとは何か」とか「物語は何か」といったなぜそれが存在してるのか、といった類の質問こそ、この本が一貫して批判したものだからです。

 これが一番まずいでしょう。

 ちなみにグルンステンを招へいして、またもや大胆に明治大学で国際シンポをやるみたいだけど、この邦訳の副題といい、参加している面子といい、いまの日本のマンガ批評の水準を考えると、メビウスと同様に大胆な跳躍的シンポであり、批判するのは容易なので、いまはそれはそれで面白いかもしれないと楽しむことにしたw 個人的に藤本スキームと名付けていまやその企画力をある意味で礼賛してさえいるww

なお関連するリンク先はここ


マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか

マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか