トマス・アクィナス『君主の統治について』

 アクィナスの文庫本初登場。その昔、経済学者の上田辰之助が『聖トマス経済学』の中に訳したことがあるが、今回のものはやはり時代に合わせて非常に読みやすい訳文。また丁寧で詳細な解説がついているのも助かる。柴田平三郎氏の次の一文が本書におけるアクィナスの主張を簡潔にまとめている。

「ただ、そこでトマスがアリストテレスに倣って、人間を自然的本性として「社会的および政治的動物」であると強調している点について、いま一度注意を喚起しておきたい。トマスはそうした人間本性のうちにあるもろもろの共同社会的な徳性(友愛・真実)を相互に培いながら、なによりも「共通善」の実現に配慮する権威を中心として「単に生きること」ではなく、「善く生きること」を求めていこうとしている。このトマスの思想は西欧中世という、私たちのとって遠く、無縁な過去の世界に封印されてしまってよいものではないと思う」(文庫版へのあとがき、237頁)。

 この柴田氏の解説の一文中の「権威」を「政策当事者」に置き換えれば、それは公共政策の担い手たちへの指針ともなるのだろう。実際に、トマス・アクィナスの政治・経済的な思想は、日本でも福田徳三、上田辰之助五百旗頭真治郎、野沢武敏らの業績を通じて社会政策思想、経済思想になんらかの影響を与えてきたといえる。上記のようなアクィナスの政治思想の中で、より具体的に経済的な事柄はどう位置づけられるのか?

 本書『君主の統治について』は主に二点指摘することができる。

1)個人の「善く生きること」を成し遂げる手段としての重要性

 「ところで個人の善き生活には二つのことが必要である。一つの、そして最も重要なことは徳にしたがって行動することである。徳とは善く生きる根拠である。もう一つの、そして二つ目のことはいわば手段に関することであるが、物質的善の充足ということであって、その使用は有徳な行為にとって必要なのである」(邦訳93ページ)

2)都市=都市共同体にとって適度な商業の利用が都市発展にとっては重要である。

 これは本書の最後部で書かれていることである。完全に商業を都市から排除することは都市を衰退させるが、(生活必需品の交易など)適度に行えば都市は栄える。ここでアクィナスは商取引に従事しているのは都市住人ではない、主に外国人を考えていた。また同様に商業を都市住民が行うことは利害にめがくらみ徳性の涵養を損なうことで都市を没落させる、とも書いている。

「だからといって、もし市民が自ら商取引に従事するとしたならば、多くの弊害のきっかけが生じることになるであろう。というのは、商人たちの関心が商取引を通しての営利へと向けられるので、市民たちの心に貪欲が伝わり、そこから都市にあるすべてのものが売り物となってしまうからである。そして信用は地に落ちて、そこに詐欺が横行する。公益が蔑視されて、各人は私欲に走る。そして徳の報酬である名誉が万人に与えられるので、徳の涵養が衰退する。それゆえ、このような都市においては、市民の共同生活が堕落することは必然であろう」(邦訳106頁)。

 徳の報酬が万人に与えられるとなぜ徳の涵養が衰退するのだろうか。統治の主体たる王にも報酬がある。それはより高い徳性に応じて与えられるより高い名誉である。このときの「名誉」とはその徳性のランクに応じて位階をもつと考えられる。世俗的で私的な利害の実現に対しても名誉は与えられるだろう。例えば単に富を人よりも多く所有していることに対して与えられる名誉はその意味での低いランクの徳である。この種の低いランクの名誉で人々が甘んじるときに、より高いランクの徳を追及しようという動機もまた廃れる。より高い徳とは、人々の共通善を追及すること、特に王の統治についていわれている。王の統治が失敗すれば、万民が低いランクの名誉に甘んじ、そのとき共同体は衰退する、ということを言いたいのだと思う。

 公共政策、社会政策の倫理的基礎を考える上でも読んでおいて損はないだろう。

君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる (岩波文庫)

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