福永宏(in週刊東洋経済)、田中秀臣(in Economics Lovers Live)に反論す

 福永宏「再論・「政府紙幣発行論」批判 政府紙幣の発行益は一時的・短期間で消える」『週刊東洋経済』。

 明日発売の『週刊東洋経済』がいち早く手元に来たので読んでたらちょっと驚いた。前、このブログで福永さんの記事を批判したのだが、

 露骨な富裕層優遇よりも政府紙幣が嫌われる理由とは?http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090215#p1

 上記エントリーからの引用を含む名指しの反論になっている。たまに忙しいと東洋経済は読まないで積読のままになるので、今回は気がついてよかった 笑。ブログはまま紙媒体の情報を批判的にとりあげるが、逆の現象は珍しいと思う。

 福永さんの反論は、先の僕の「二種類紙幣が流通しても問題はないと考える。額面の工夫、デザインの工夫、さらには材質の工夫(その昔、高橋さんはプラスティックマネーの発行を唱えた)でもいいだろう。そうすると福永論説の(僕にはよく理解できない)日本銀行を経由する必要はなくなる」にむけられている。

 ところでこの引用部分は、福永論説(ここ)の(1)と(2)共通で、実務的な関連から日銀券と政府紙幣二種類が流通してしまう、と福永さんが心配されるので、両方が区別つくようにデザインすればいいんじゃないの、終り、 ということである。

 ところが今回の福永論説では、このデザインの区別などに関心がいっていない。むしろ論点は、僕のエントリーの引用部分以後にあるようだ(僕のブログを引用いただいたのはいいのだが、引用箇所が適切ではないと思う)。

 しかも確か記憶では、前回は政府通貨発行は無利子・無期限国債と同じで、これは財政規律の緩みとか、通貨の信認に関して問題があるということだった(これを福永パートワンとする)。今回はこういった問題以前に、「そもそも政府にとって採用する“うまみ”のない政策である」ということだそうである。

 その福永さんのロジックは、ご本人のまとめによれば(政府紙幣が市中を流通するケース)

 「①政府紙幣が日銀に還流→日銀が保有→日銀の利益が減少→政府への納付金が減少→通貨発行益が消滅(と同等の効果)。②政府紙幣が日銀に還流→政府が回収→通貨発行益が消滅。いずれにせよ政府が得た通貨発行益はしだいに消えていく運命にある」。

 この引用部分を、福永パートツー(Ⅱ)とする。

 もしこの福永さんのロジックが正しければ、福永パートワンと照らしあわせると奇妙なことに気がつく。まず財政規律は緩まない(だって政府の通貨発行益は消滅しているから!)、通貨の信認の問題もない(政府紙幣の発行額と日銀発券残高がちょうど打ち消しあうと福永さんがいっているから、インフレにならない!)、のだから「問題以前」ではなく、パートワンとは違った問題を今回は提出しているに等しい。

 しかも、今回でも、「政府紙幣とは、結局、無利子・無期限国債と同等であり、政府紙幣の発行は、政府債務の増加であるという問題の本質をよく示している」といっているのだから、やはりパートーツーではなく、パートワンの方が問題の「本質」のようである。この問題の「本質」の方は、要するに財政に維持不可能性、高いインフレ、ということが、福永論説のいうところの「弊害」だったはずだ。でもパートワンとパートツーは矛盾する。いったい政府紙幣は福永さんにとって何なのだろうか? 

 ところでパートワンで強調されていた「弊害」への応答はすでに前回のブログで書いた。さらに最近では、FRBのバランスシートの膨張(これは日銀流に読み替えれば“日銀”の利益の減少)が出口においてもつリスクを回避する方策として、イエレンやバーナンキ、そして政府側でも積極的な発言がみられる。それはバランスシートの膨張の急減を避けて、経済の正常化の後に金利の正常化をなしとげる方策である。この点はまた後日暇があればまとめよう。

 それにくらべて日銀とその代弁者たちは、なぜか日銀のバランスシートの毀損を理由に積極的な緩和を避けている。いいかたをかえると毀損するからやらないだ。米国やイギリスなどは、緩和政策のコストを理由に「やらない」ではなく、コストを引き受けて「やる」だ。この姿勢が意欲的な出口政策の設計のあるなしにもつながるのだろう。

 かってバーナンキは「要するに、中央銀行のバランスシートというものは金融政策の決定にとってせいぜい限界的な意義しか持ち得ないことを経済的に証明できます。しかし、この問題を巡り、おそらくかんかんがくがくの非生産的な論争となりそう」だ、と彼はいっていた。僕の認識もそうである。

 日銀は自分のバランスシートのみを大切にしているようだが、本当に大切なのは国であるはずだ。百歩譲っても統合政府であるはずだろう。そういう意識は、福永論説にも感じられない。ちなみに僕の前に書いたエントリーの主張(ボンドコンバージョンの導入、名目成長率目標が重要である、格差をもたらす無利子非課税国債の無視はなぜか?)にいっさい、福永論説は応えていない。それはちょっとないんじゃない?

 ちなみに福永論説のパートワンのここ、と白川総裁の発言(2月の記者との問答参照のこと)はまったく同じであり、その意味では日銀理論流の政府紙幣批判論である、ことも申し添えておく。


(おまけ)農作業で手を酷使してちょっとしびれた〜w