小田切博「キャラクターのランドスケープ」再起動

 あやうく機動と書きそうになったが 笑。もう連載やめたと思ったら(失礼)、いつの間にか再開してました。下の原氏と同様にアンテナに入れておこう。

http://wiredvision.jp/blog/odagiri/

「マンガと海外」http://wiredvision.jp/blog/odagiri/200902/200902271400.htmlでは、

以前、山口昌男鶴見俊輔といったひとたちが50〜70年代くらいに書いたマンガについての文章を読んでいてたいへん驚いたのだが、当時の彼らのエッセイや論考においては明確に「欧米のマンガはすぐれていて、日本のマンガもそれに追いつかなければならない」という主張がとられている。つまり、あきらかに山口や鶴見にとって日本のマンガと海外のそれはひとつながりのものであり、むしろ「海外のマンガ文化をモノサシに日本の水準を測る」ことが意図されていたわけだが、80年代以降日本のマンガ言説においてはかつて「そのような発想があった」という事実自体がきれいに消去されてしまっている。

 僕も小田切さんから山口、鶴見本を紹介してもらって読んだけれども、彼らの知的好奇心の間口の深さに感心した。簡単にいうとおたく的な発想とは一線を画していて、境界をつくらない雑食性という性質をもっている。両者ともそのマンガの選書範囲は地理的にも時間的にも非常にひろい。しかもここが注意点だが両者ともにマンガ以外の世界への関心(特に鶴見は制度的な大学アカデミズム以外の活動)への接続が明らかなことである。小田切さんがこのふたりの業績をいまのマンガ言説が消去しているとするならば、その背景には自らの関心の間口をひろげていく柔軟な精神(つまりマンガ専門バカではないなにかへの情熱)や、制度的な枠組み(大学や学会や政府の音頭に寄生するとか)への安易な傾斜というここ10数年のトレンドと、このふたりの資質が異なるからじゃないだろうか?

直近のエントリーは、「コンテンツはどこから来たのか」http://wiredvision.jp/blog/odagiri/200903/200903241500.html

その後のハードウェアの急速な発達とネットワークの高速化によって、あっという間に携帯でも普通に動画が見られる現在の状況がもたらされた訳だが、96年の時点でマイクロソフトがこうした活動を活発化させていた事実は、たとえば現在のGoogleの「ブック検索」を巡る問題などにつながるものだといえる。

 しかし月一連載とはw