ハロルド・ウィンター『人でなしの経済理論 トレードオフの経済学』(山形浩生訳)


 ご恵贈いただきました。どうもありがとうございます。

 
 本書は経済学の基本的な観点である、人間行動のありかた(費用と便益のトレードオフ……つまり損と得の比較)に注目することで、経済学を理解していない人たちでも容易に、経済学の基礎的な観点とそれを応用した実に幅広い話題の理解につながることを示していて爽快な本です。以前、僕のブログでもふれたことがありました(id:hicksianさんから教えてもらったのです)。それが山形さんのわかりやすい訳文となって日本の幅広い人が読めることになったのはラッキーなことでしょう。


 本書は単に理論的な話で終わるものではなく、実践的な観点から現代社会のさまざまな論争に、この費用と便益のトレードオフをもとに切り込んでいきます。人命の価値の計測、臓器の交換をめぐる論争、著作や医薬品の権利をめぐる論争、喫煙をめぐる論争(本書はこの喫煙をめぐる論争にかなりの紙数を割いています)、医療過誤やシートベルト着用義務などの規制問題、製造物責任問題などなど、多様な問題の錯綜した論点を、経済学の視点から実にクリアに摘出することに本書は成功しています。これらの問題は日本においても日々議論されている問題なだけに本書を読むことで、経済学に好意的な人も、それを胡散臭く思う人も、ともに経済学的思考への防衛ないし参照として役立つことができるでしょう。


 本書の邦題にも明らかですが、時に本書の視点は、社会の「常識」をあえて刺激(いや、必然的に刺激)するものとなっています。それは「心優しい人」の神経を逆撫ですることもあるかと思います。例えば本書の帯にも書かれていますが、「あなたが州の健康保険の支払額を決める地位にいたとしよう。500万ドルかけて、昏睡状態の子どもをひとり、最大一ヶ月生かしておける。あるいはその50万ドルを10人の病気の子どもにふりわけて、彼らの命を助ける手術を受けさせることができる。どっちを選ぶ? 僕の母親はこのむずかしい問題に対して、とっても優しい答えを出した。「あたしなら昏睡状態の子も助けて、10人の子にも手術を受けさせてあげるわ」。これはとってもすてきな答えだけど、実際にはどこかでトレードオフを検討しなくちゃいけなくなるのだ」。


 結局この問題を考えることは、何が損(費用)であり、何が得(便益)かを同定することを通じて、人命を効率性という尺度で考えることに等しくなります。もちろん他の尺度(平等や他の社会的理念)を無視するべきだ、と本書はいっているわけではありません。効率性で社会的な問題を評価する際に、注目されるべきトレードオフに主に焦点を限定し、それだけでも非常に斬新で豊かな、時には社会的な常識を刺激してしまう観点が提供できることを示しているのです。そういう思考の自由度を高める役割として本書はとても役立ちます。参考文献もかなり充実しているのも本書の価値を高めるでしょう。


 論理的に人でなしになりたい人も、そうではなく論理的な人でなしに対抗したい人もこの本を読むべきでしょう。


人でなしの経済理論-トレードオフの経済学

人でなしの経済理論-トレードオフの経済学