芹沢一也『暴走するセキュリティ』


 芹沢氏の本はここ数年、新刊が出るたびに毎回買っている。その一方で、『論座』はよほどのことがないと読んでなかったので、本書が連載されていたときも当然に未見であった。本書を日曜の昼間に読んでいて、思わず、あれ、と声を出してしまった。僕の昔の著作『日本型サラリーマンは復活する』からかなり長めの引用があったからだ。今度でた『雇用大崩壊』につながる作品である。芹沢氏の著作をまめに読んでいた身からすると少しうれしい出来事であった。


 さて本書は日本が少年犯罪をめぐる社会の関心のあり方が変化することで、「厳罰化社会」になったことを丁寧に議論している。「厳罰化社会」はまた、「安全神話の崩壊」というメディアや警察側の喧伝によって、人々に過剰なセキュリティへの傾斜を促した。この過剰なセキュリティは、単に意識の変化だけではなく、犯罪への厳罰化や、また監視システムの構築など、制度面の変化をもたらし、社会のありかたを変貌させた。


 また社会の厳罰化、監視化への加速は、近代の権力のあり方に矛盾をつきつけることになる。芹沢氏によれば、近代の権力は矯正と生の次元において発露されるものである。しかし死刑基準の事実上の変更、刑務所が矯正の場ではなく社会保障の代替物へ変容することなどを通して、近代の権力は死と生存の軽視という矛盾に直面している。


 芹沢氏によれば、このような厳罰化・監視化社会への変容は、90年代以降からの経済状況の変化と無縁ではない。若い世代の困窮化、社会的弱者の放置などがすすむことが、彼らを事実上敵視すること(例えば本田氏らが「ニートっていうな!」と書いたときの、ニート俗流若者論をいっていた人々)と、また逆に若者を中心にした人々に社会改革者(プレリカートや赤木智弘氏のメディアでの登場の仕方など)の残影をかさねあわせる動きとが、表裏一体としてすすむ事態を、芹沢氏は指摘している。


 本書ではまた、監視化社会の二面性についても指摘している。例えば監視カメラというテクノロジーの進展自体を否定することができない。芹沢氏によれば、問題はその「政治的文脈」にあるという。例えば、取調室に監視カメラをおき、自白偏重の取調べの可視化と、それに対して監視カメラが不審者発見に過剰に利用されてしまうことで、住民を潜在的な犯罪者として処遇し住民にもそのような意識を植えることなど、二律背反する困難があるという。


 芹沢氏の論点については、僕は以前、『不謹慎な経済学』の中で論じたことがある。それは自由のパラドクスという文脈でである。芹沢氏の今回の本にひきつけてみると、90年代以降の日本の経済システムの変化(日本型雇用システムの崩壊など)をうけて、私たちは従来の社会=会社 という管理のあり方が、従来の長期的雇用が可能にしていた社会資本(信頼)から、(短期でも長期的雇用でもその雇用形態を問わない)監視カメラの下へと移行してしまったというべきなのだろう*1


 監視カメラのもとでの会社=社会のあり方は、他方で効率化をうながすことで私たちの自由な選択肢を増やすことにつながるだろう、だが同時にそれは会社=社会における選択肢の排除(会社や社会にのれない人たちへの軽視)をともなうことで、自由の抑圧にもつながるかもしれない。本書はこのパラドクスを考察するよき素材である。


暴走するセキュリティ (新書y)

暴走するセキュリティ (新書y)

*1:もしろん日本の雇用システムの中にあった社会資本=信頼にも、社会の効率化と同時の、暴力装置としての役割という多面神的側面はあった