生まれたときから日本はこんな感じで今さら不況だからどうとか言われてもよくわからない

 エントリーのタイトルは『小悪魔ageha』最新号より

 切込隊長と超越議論をしたときに、隊長が以下のことを書いたのが心にひっかかってた。特に強調部分(強調したのは僕)。
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2008/12/post-9f83.html#more

完全失業率とか

 良く分からないです。実体経済は前に比べて悪化してると思いますが、前が異常だったんじゃないですかね。無理な信用創造を繰り広げて世界的にバブっていたころと比べて、いまは実体経済最悪だ、というのは相対的に見てそれはそうだろうけど、元からこんなもんだったんじゃないかと、ロスジェネ世代な私は思ってしまいます

 問題は、実体経済が悪化するのは当然として、それがしばらく続くのも当然として、はて、どう対処して環境に適応するのかしら、という話じゃないでしょうか。

 ロス・ジェネ世代だけどもバブった頃の記憶もあり、さらに最近では産婦人科で同風景を共有しているので、そんなに世代断絶は正直感じない。そもそも僕はバブル全盛のときは「ニート」やってて90年代前半(96年まで)は「学生」なわけで、その意味ではいわゆるロス・ジェネ世代の最初期に属する人たちは「同級生」にいた。いわゆる高学歴ワーキングプアと後にいわれる人たちが「同級生」。だから切込隊長の物言いは、僕からいうと多少のオーバーな感じはするものの、まあ、そんなものかな、という気がしたのである。

 例えば水無田気流氏の『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』をみると、そこには「落差」感覚が書かれているといえる。僕も「落差」感はあるわけで、80年代(あるいは90年代の最初の数年)と90年代真ん中以降の「違う」感じを「落差」とその感覚へのなんらかの「適応」する自分、という立ち位置は、前ロス・ジェネもロス・ジェネ世代もそんなにかわらないような気がする。


 例えば水無田氏が書いている、デフレ世代は予め失われた世代、だとはちょっと思えない。

 あえて言えば、私たちデフレ世代は「あらかじめ失われた世代」である。教育理念やメディアに日々映し出される「理想」と、経済社会構造という「現実」、それらが常に大いなる矛盾と桎梏を抱える時代を、個人史として育ってきた。

 僕らのような高度経済成長期に幼少時代をすごした人間はいわば長期バブル(完全に形容としては間違っているが 笑)の「理念」とメディアがつくった成長期社会の「問題」「桎梏」のはてに、青少年から青年期には、低成長とグローバル化(70年代と80年代の国際化の庶民レベルの格差はかなりあると思う。僕が80年に最初に大人キッスしたの金髪の外国の女性だったし、そんなの70年代の自分には想像絶するグローバル化なわけで 爆)の「現実」は、やはりそれなりに大いなる??矛盾と桎梏を抱えていたといっても(いわなくても)いいだろう。簡単にいうと、デフレ世代ないしロス・ジェネ世代の感覚は、新奇なものとはいえない。僕らの世代にも馴染みがある感覚だといえる。

 図式化すれば

 デフレ世代: 低成長→ バブル → 失われた15年

 僕らの世代: 高度経済成長 → 低成長 → バブル →失われた15年

 いいかえるとたぶん僕らの世代の方が「落差」感を二回体験した、「落差」体験のプロフェッショナル??ともいえなくもない。だから切込隊長と水無気氏らの感覚もわかるように思えている。まあ、勝手に思うだけなのでこれをなんらかの客観的なレベルで議論できるかどうかはまだよくわからないが。 

黒山もこもこ、抜けたら荒野  デフレ世代の憂鬱と希望 (光文社新書)

黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望 (光文社新書)

 ところで僕がいま知りたいのは、生まれたときにすでにデフレ不況で、そしてそれが基本的にず〜っと続いている人たちの心性というか、あえていうなら「思想」=心の技術、とでもいうもの。水無田氏風にいうならばさきほどの「落差」さえも知らない世代である。

 年齢的には、いまちょうど14,5歳の人たちかな。バブル崩壊してすぐにどつぼの不況というわけではないので、本当に「やばいんじゃないかな」と世間が思い出したのは、97年くらいだから、そのとき以降で物心がついた世代だからなあ。となると上限はもっとあげて17,8歳でも可か。

 この世代はどんな「社会」をどうみるのだろうか? やはり小悪魔agehaなのか? 笑 いや、この雑誌の対象読者層の方がまだ上かもなあ。というわけでこの考察はいつかに続く、経済論として成立すれば興味深いと思う次第。