『構造改革論の誤解』ダイジェスト版

 昨日のエントリーに書きましたが、モリタク先生が朝日新聞で私たちの旧著をおとり上げくださった記念といいますか、この旧著の内容を私たちがその昔、猪瀬直樹氏のメールマガジンで簡潔にまとめた原稿があります。以下にそれをご紹介します。野口旭さんと私の共著です。当時(2001年)の戦後最悪の経済情勢という緊張感、構造改革の熱気とそれへの私たちの熱い批判的視点などを感じていただければ幸いです。下で「本MM」などとあるのはメールマガジンの略称です。


構造改革の真の目的とは何か――政府と市場の正しい役割分担を――」

                   
●深まる不況の中で構造改革をどう進めるか

 小泉政権の「構造改革」がひとつの節目を迎えようとしている。予算編成や特殊法人改革が本格化する中で、族議員や官僚・利益団体の反攻も日を追って激しさと巧妙さを増している。そうしたなかで、本MMの編集長を務めるわれらが同志・猪瀬直樹氏が「行革断行評議会」を拠点に、小泉政権構造改革を守り通すべく、まさに八面六臂の活躍ぶりをみせていることは、本MMの読者ならご存知であろう。論壇誌やテレビの討論番組などでの「虎の門体制」打破のための猪瀬氏の孤軍奮闘ともいうべき闘いをみるかぎり、小泉政権の「構造改革」をいま最も具体的に体現しているのは、ほかならぬ猪瀬氏ではないかとさえ思う。

 しかし、構造改革にとっての敵は「霞ヶ関」や「虎の門」、すなわち族議員や官僚、利益団体だけではない。それよりももっと手に負えない敵がいる。それは、ますます悪化しつつある経済情勢=日本のデフレ不況である。同時多発テロを契機とした世界情勢の急変は、日本経済にとってはまさに「泣きっ面に蜂」であった。それ以降、デフレも失業率も、進行の速度をひときわ強めている。つまり、構造改革をめぐる環境は、厳しさを増すばかりなのである。

 本MMは、今回の配信で100回を迎えた。猪瀬氏は本MMの発刊時に、以下のように記している

「出口の見えないデフレ不況、拡大し続ける財政赤字、巧妙に隠蔽される既得権益、肥大化し化石化する官僚システム、遅々として進まない構造改革……。要するに、現在の日本は、あらゆる組織や制度が疲弊し、機能不全に陥っている」(メールマガジン「日本国の研究」ホームページ巻頭言より)

このMMの発刊から現在まで、すでに半年以上が経過した。そしてその間には小泉政権が誕生し、構造改革への本格的な取組みがようやくその緒につき始めた。ところが、「出口の見えないデフレ不況」の方は、改善するどころか悪化するいっぽうである。つまり、われわれはいま、深まる不況の中で構造改革をどのように進めていくかという困難きわまる課題を、あらためて突きつけられているのである。

●景気か構造改革か――「二者択一ドグマ」の不毛性

 振り返ってみれば、日本ではバブル崩壊以降、「景気対策か、それとも構造改革か」をめぐって、堂々巡りのような経済政策論議がつづけられてきた。それにともなって経済政策の方向性も、従来型の財政政策中心の景気対策から、橋本政権時の「行財政改革」路線へ、そして小渕政権時の「何でもあり」の超拡張政策へと、めまぐるしく変転してきた。しかし、実体経済の方は改善するよりは停滞しつつ現在にまでいたっている。そして、結局「景気か構造改革か」という不毛の対立のみが残ったというのが日本の現状である。

 これが「日本の失われた十年」の実態であったとすれば、われわれはそこから、少なくとも次の教訓を学ばなくてはならない。それは、「景気か構造改革という二者択一ドグマに陥ってはならない」ということである。この「二者
択一ドグマ」とは、「景気対策構造改革の妨げになるから行うべきではない」とか、逆に「構造改革は景気回復の妨げになるから行うべきではない」という考え方である。つまり、一方を盲目的に称揚しつつ他方を否定するような「構造改革原理主義」あるいは「景気原理主義」の立場である。原理主義の特徴とは、「自らとは異なる立場の全否定」にある。あらゆる原理主義と同様に、この二つの原理主義も、政治的、思想的スローガンとしてはともかく、現実への処方箋としては有害無益以外の何物でもない。

 本来、景気対策としてのマクロ経済政策と構造改革は、その目的および手段を異にしており、対立しあうものでも矛盾するものでもない。構造改革とは、経済の効率性改善へのインセンティブを生み出すような各種の制度改革のことであり、具体的には公的企業の民営化、政府規制の緩和、貿易制限の撤廃、競争促進などである。いま問題になっている特殊法人改革や郵貯改革などは、まさしくそうした意味での構造改革である。これらの改革は、資源配分の適正化を通じて、経済の潜在成長率の上昇に寄与する。それに対して、経済全体の需要不足によって、現実の成長率がこの潜在成長率にまで到達していないときに必要になるのが、マクロ経済政策である。その目的は、総需要の調整を通じた適切なインフレ率および失業率の達成および維持である。

「二者択一ドグマ」的思考が有害無益なのは、現在の日本経済が、明らかにマクロ経済政策と構造改革の両方を必要としているからである。マクロ政策が必要なのは、日本経済はいま需要収縮とデフレ・ギャップの拡大によって、未曾有のデフレと失業の罠に落ち込みつつあるからである。そして、構造改革が必要なのは、われわれの経済が巧妙に張り巡らされた権益システム=「虎の門体制」に囚われているからである。経済のマクロ的収縮を反転させるのに必要なのは、デフレ阻止を目標とした徹底した金融緩和政策であって、構造改革ではない。同様に、非効率かつ不公正な権益システムの廃棄に必要なのは、構造改革であってマクロ政策ではない。マクロ政策はあくまでもマクロ安定化のためのものであり、構造改革は構造問題の除去のためのものである。この両者の「政策割り当て」を取り違えてはならないのである。

●「言うだけ構造改革論」は無意味

 以上のようなマクロ政策と構造改革の役割分担を前提とすれば、いま一般に論じられている「構造改革」や「構造改革論」の内容は、あまりにも雑然とし、かつ相矛盾しており、さながら「がらくた箱」のような様相を呈している。「小手先の景気対策ばかりで抜本的な構造改革を避けている」といつも舌鋒鋭く政府を批判してきたエコノミストが、「ではその構造改革とは具体的には何か」と問われたとき、何も答えられなかったという笑い話がある。このようなエコノミストのいう「構造改革」とは、実体のない単なる記号でしかない。

 それでは、構造改革、あるいはその対象となるべき「構造問題」のメルクマールとはどこにあるのであろうか。それは、「政府の市場への不適切な関与」が存在するのか否かである。構造問題とは具体的には、特殊法人等も含む非効率な公企業、過度な政府規制や貿易制限、不充分な反独占規制などのことである。この場合には、非効率性を生み出す原因は基本的に「政府」の側にあるのだから、政府が自らの責任で適切な制度改革を実行する必要がある。それによって市場が本来持つ資源配分機能を回復させようとするのが、構造改革である。

 例えば、日本の80年代の国鉄改革=国鉄民営化、90年代の規制緩和や金融ビッグバン等々は、まさしくその意味での構造改革であった。かつての国鉄は、「親方日の丸」の公企業であったがゆえに、経営効率改善のインセンティブがきわめて低かった。国民はその結果、必ずしも質の高くないサービスに対して高いコストを支払わなければならなかったのみならず、膨大な債務まで負担させられた。また、金融ビッグバン以前の「護送船団方式」時代の金融業では、金融システムの保護を目的とした強固な参入規制が存在したために、そのサービスは常に画一的でありかつ割高であった。結局のところ、それらのコストは現在の特殊法人等のコストと同様、すべて国民の負担となったのである。

 構造改革とは要するに、こうした「構造」を改革することである。そこにはつねに「政府の不適切な関与」が具体的に存在する。しかし、現在の「構造改革論」のなかでは、その点がきわめて曖昧にしか認識されていない。例えば、「構造改革論者」はしばしば「建設業や流通業などの『低生産性産業』のリストラをすすめ、資源や労働力を『成長産業』へ移動させ、産業構造調整を進めることこそが『構造改革』である」と主張する。確かに、不適切な政府関与によって資源や労働の産業間移転が妨げられているとすれば、その政府関与を改めることは構造改革そのものである。しかし、リストラを通じた「産業構造調整」それ自体は、個々の民間企業の経営努力の結果としてもたらされるものであって、政府が担うべき構造改革ではあり得ない。

 本来、過剰な規制が存在せず、市場が適切に機能してさえいれば、産業構造調整は自ずと進んでいく。「成長産業」であるIT産業や介護サービス産業を伸ばしていくことこそが構造改革だといったような考え方には、経済学的な根拠はない。それらが本当に成長産業なのであれば、政府が何をしなくても民間企業がそこに先を争って参入してくるはずだからである。かつての通産省が得意としていた産業政策の焼き直しのような「IT産業振興政策」に政府がのめりこむとすれば、それこそが、構造改革とは逆行する「無用な政府関与」であろう。

構造改革とは逆行する不良債権処理

 その点において、最も多くの誤解が蔓延しているのが、不良債権問題に関する理解である。多くの人びとは、政府が不良債権処理に関与することこそがまさしく構造改革であると考え、かつそのように論じている。しかし、それは基本的に誤りである。というのは、不良債権処理とは、基本的に民間企業間の債権・債務の処理問題だからである。それは本来、一定の法的ルールのもとで当事者同士が解決すべきものである。たとえそのプロセスにおいて経営危機に陥る金融機関があったとしても、それは他の民間企業の場合と同様に、一般的な市場ルールのもとで処理されなければならない。そこに政府が軽々しく関与することは、むしろ金融機関に対して適切なリスク管理を怠らせるようなインセンティブを与える。つまり、モラルハザードの原因となる。

 もちろん、これはあくまでも「一般原則」であり、例外がある。それは不良債権の累積が、単に個々の金融機関の経営問題にとどまらない「金融システム全体の困難」をもたらしていると考えられる場合である。例えば、日本で金融機関の連続倒産が起きた1997年から98年においては、明らかにこうした意味での金融システム不安が生じていた。政府は、98年末に金融再生関連法を成立させて以来、銀行への公的資金投入などを通じて不良債権の処理を強く促してきた。この政府のイニシアティブは、少なくとも金融システム不安を取り除くための政策としては、一定の根拠があったと考えられる。

 ところが、不良債権問題がここにきて改めて問題になっているのは、金融システム不安の再燃が原因というよりも、単なる景気悪化不安のためである。にもかかわず、不良債権処理の必要性を声高に唱える一部の論者は、「銀行の持つ不良債権整理回収機構(RCC)による日銀資金を用いた買い取り」のような、まさしく政府へのつけ回しそのものの方策を主張し始めている。滑稽なのは、このように真にモラルハザード助長的な政策を「構造改革」と称して唱えている論者の多くが、量的緩和インフレ目標のような金融緩和政策に対してだけは、「モラルハザードを生む」としてこぞって批判的なことである。彼らはまず、インフレ目標によってデフレを改めるマクロ政策がなぜモラルハザードにつながり、逆に国民負担による民間債務の消却がなぜモラルハザードにつながらないかを説明すべきであろう。

●求められる政府の役割とは

 市場と政府の役割分担がどうあるべきかは、経済学にとっての永遠の課題の一つである。しかし現在の標準的理解では、政府には少なくとも三つの固有の経済機能があるとされる。第一は、市場の失敗の是正である。具体的には、公害等の外部不経済の抑制や、市場で供給されない公共財の供給である。第二は、金融および財政政策を通じたマクロ経済の安定化である。そして第三は、税制等を通じた所得の再分配である。逆にいえば、これ以外のことは、基本的には市場に委ねるべきなのである。その意味でリストラを通じた産業構造調整や、民間企業間の不良債権の処理などは、民間経済主体が自らの責任の中で実行すべきものである。そして、構造改革とはまさしく、「民間経済主体が自らの責任のなかで実行する領域を拡げる」ための政策なのである。

 ただし、産業構造調整や不良債権処理なども含めて、民間経済主体間の経済行為、経済活動が円滑に進展するためには、重要な前提条件がある。それは、政府がマクロ経済政策、すなわち金融および財政政策を通じて、安定的なマクロ経済環境を創出するということである。その安定的なマクロ経済環境とは、要するに適切なインフレ率と失業率の達成、そしてその維持である。逆にいえば、これがない限り、産業構造調整も不良債権処理も進むはずはない。このことは、デフレと失業が拡大し続けた「日本の失われた十年」の中で、産業構造調整がつねに停滞し、不良債権が絶えず拡大しつづけてきたことからも明らかである。それらはデフレ不況の原因ではなく、その結果にすぎない。「景気か構造改革か」の二者択一ドグマからの脱却が必要な理由は、まさにそこにある。