フェルドシュタイン:中央銀行の二つのスタンスと労働組合

 マーティン・フェルドシュタインの論説(http://economistsview.typepad.com/economistsview/2008/08/feldstein-a-tal.htmlでの紹介による)から彼の論説を随時補いながら紹介。彼はFedとECBの金融政策のスタンスが、コモディティ価格の上昇によるインフレリスクに対して対照的なことに注目する。Fedはインフレと失業を両睨みで、特に昨年から近時まで景気を重視して積極的に利下げを行った。対してECBはコモディティ価格の上昇がインフレ期待を招きそれが高いインフレをもたらすことを重視し利上げスタンスであり、厳格なインフレファイターといえる。

 この両者の違いは、フェルドシュタインによれば両経済圏における労働組合の交渉力の強さの違いに依存している。ユーロ圏では労働組合の力が強い(労働組合参加率も高く、低いフランスも交渉力は強い)。このためインフレ期待をそのまま賃金などの上昇として実現してしまい、これがインフレ圧力を生み出す。また同時にECBはまだ始まったばかりの制度であり、公衆の信認を得ていないとECB自らが懸念しているためインフレに強い姿勢を示している可能性もある。また戦前のハイパーインフレーションの経験が政策担当者の脳裏にあるのかもしれない。

 それに対してアメリカでは労働組合の交渉力は強いものではなく、インフレ期待が賃金と物価にインフレ圧力を加えるものとはいえない。

 このフェルドシュタインの労働組合の交渉力からの説明は、日本の過去の経験からみると興味深い。小宮隆太郎の『現代日本経済』(東京大学出版会)などでも言及されているが、過去の石油ショック時において、労働組合は経営者側の終身雇用へのコミットと引き換えに、賃上げを要求することはなかった。また政府もこのような「所得政策」を仲介したとされる。つまりフェルドシュタインの議論の延長上でいうと、日本では労働組合の交渉力が強かった(?)ために、インフレスパイラルを抑えることが可能であった、ともいえるわけで、必ずしもフェルドシュタインのいうように労働組合の強さの多寡がそのまま賃金・物価の上昇スパイラルをもたらすとはいえないのではないだろうか。

 ところで、この種のFedとECBの政策スタンスの違いは、日本では岡田靖さんが以下のように説明していた。http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070719#p2

 例えば、金融政策が「成功」し、マクロ経済環境が安定化しだすと、リスクをとる主体が増えることで資産市場が不安定化することがある。このときどのように対応するのか。

 :ひとつはFEDビューと呼ばれるものであり、「危機が起これば必要な流動性を十二分に供給し、危機を押さえ込め」と教えている。人によってはグリーンスパンFRB議長の政策運営はこれだけだったと酷評する人がいるが、確かに彼の行ったことのある一面を的確に評価しているとも言えよう。これに対して、BIS(国際決済銀行)ビューあるいはブンデスバンク(ドイツ連銀)ビューとでも言うべきものがある。これは「混乱を引き起こすバブル崩壊の原因となる資産価格の過度の上昇それ自体を押さえ込め」と教えている。:


 ところでこのフェルドシュタインの説明に対して、Mark Thomaは反論している。労働組合にインフレの事実上の責任を求めるのはいかがなものか。むしろ中央銀行が(労働組合の要求に屈してお金を刷って公共投資に回すような)政府からちゃんと独立していないことや、インフレターゲットなどの政策目的にコミットしていないことが問題である、とThomaは指摘しています。

 しかもThomaはECBをフェルドシュタインが厳格なインフレターゲットを採用しいていると見做していることにも反対しています。そもそもインフレターゲットは、短期的には、雇用や産出高の落ち込みを回避するためにその目標値の幅を逸脱してもかまわない。またいまの日本銀行ゼロインフレ以上のインフレ目標値を進めている人が多いのは、デフレに落ち込むことが経済に悪影響をもたらすためであり、デフレに落ち込まないためにもゼロインフレ以上、例えば2%ぐらいのインフレ目標値が望ましいとトーマは書いています。さらにThomaはバーナンキの発言を引いて、厳格なインフレターゲットは望ましくもなく、むしろ伸縮的インフレターゲットが望ましいとしています。

 僕はMarkThomaの議論に賛成します。

 なお、伸縮的インフレターゲットについては以下のエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080319#p3から再引用しておきます。


: バーナンキインフレターゲット論の主要内容は、1)フレームワーク、2)コミュニケーション戦略 のふたつで構成されている。フレームワークとは、先ほどの制約された裁量と同じであり、金融政策をいかに行うかについての「ベスト・プラクティス」(最善の実践)であるという。

 「制約下の裁量のもとで、中央銀行は、経済構造と政策効果について知識が不完全なことに注意を払いながら、短期的な混乱は無視してでも生産と雇用の安定のために自主的に最善を尽くせます(これが制約下の裁量の「裁量」部分です)。しかし決定的に重要な条件は、安定化政策を実施するにあたり、中央銀行がインフレーーそして、それゆえ国民のインフレ予想をしっかりとコントロールするという強いコミットメントを維持する必要もあるということです(これが制約下の裁量の「制約下」部分です)」(『リフレと金融政策』邦訳39頁)。

 そしてこのようなインフレターゲットは金融政策が通常、半年から1年半ほどの政策ラグを伴って効果があらわれるために、先行して経済主体の予想をリードしていくという性格を色濃くもった期待形成のフレームワークでもある。

 例えば、今日のアメリカ経済の低インフレの好循環が成立している背景には、まさに低インフレ予想がキーであるといえる。その反対のケースが70年代の石油ショックのエピソードである。産油国の石油価格の戦略的値上げによってコストプッシュ型の激しいインフレが起きたというのが定説である。しかしバーナンキは実際には石油価格の高騰が各種財やサービスのコストを引き上げたことによってインフレが多少は悪化したのは事実であるが、むしろそれよりも深刻だったのは家計や企業がFRBの金融引き締めが不十分であることを予想し、それが高いインフレ予想を招き、そして賃金値上げや製品価格値上げに移行した、という見方を立てている。むしろFRB石油ショックに直面する以前の金融緩和姿勢もそのような経済主体の高インフレ期待を促したともバーナンキは指摘している。

 実は日本でも石油価格の高騰が70年代の「狂乱物価」を引き起こしたとする通説が根強い。しかし小宮隆太郎は「昭和47,48年のインフレーションの原因」の中で日本銀行石油ショック前の行き過ぎた金融緩和政策とその後の引き締めの遅れがこの「狂乱物価」の犯人であり、日銀の政策の遅れが(小宮はバーナンキのように期待の経路は明示していないが)企業や労働組合などに製品価格上昇や賃上げに走らせた、と述べている。そして70年代末から80年にかけての第二次石油ショックの影響が軽微だったのは、日銀が過去を反省していち早く強い金融引き締めスタンスを採用したことにあり、それに応じて(これも期待の経路は小宮では不明確なのだが)労働組合や企業も賃上げなどのコストプッシュの要因をおさえるべく、労使協調路線を採用することでこの事態を乗り切った、と書いている(小宮隆太郎『現代日本経済』東大出版会)。

現代日本経済―マクロ的展開と国際経済関係

現代日本経済―マクロ的展開と国際経済関係

 アメリカの方はボルカー元FRB議長の1979年における断固たる“タカ派”的レジーム転換で、徹底的に高インフレと闘ったことで、その後の低インフレの好循環の基礎ができた、とバーナンキはボルカーの業績を評価している。しかし、このボルカーのタカ派へのレジーム転換が社会的にきわめて重いコスト(=失業率の増加)を伴ったことを指摘することをバーナンキは忘れていない。

 ボルカーの行った「ディスインフレ」(高いインフレ率を抑えて低インフレにすること)政策が、積極的な名目利子率と実質利子率の引き上げによって実行され、それが80年代に入ってインフレ率の劇的な低下を見る一方で、それと見返りに10%にせまる高い失業を生み出してしまった。バーナンキはこの70年代のインフレ予想形成の失敗がいかに社会的コスト(失業)を生み出したのか、このような失敗を今後しないためにも経済主体の予想形成が金融政策の欠かせない要素になると力説している。

 第二の要素のコミュニケーション戦略であるが、中央銀行が国民や市場参加者に対して政策目標、フレームワーク、経済予測を事前に公表することで、中央銀行の政策に対する信頼を醸成し、さらに政策責任の明確化と政策の決定過程とその帰結の透明性をはかろうというものである。このことが少なくとも政策当事者の行動とそれを予測する民間主体の不確実性の減少に貢献することは疑いがないであろう。

 ところでこの「ベスト・プラクティス」としてのインフレターゲットがアメリカに導入される見込みはどうであろうか。従来、インフレターゲット導入への反対の論拠として、連邦準備制度の目的規定(連邦準備法2A条)とのダブルスタンダードになるという点をあげて反論するのが一般的であった。

 「連邦準備制度理事会及び連邦公開市場委員会は最大雇用、物価の安定及び緩やかな長期金利という目標を有効的に推進するために、生産を増加する経済の長期的潜在性と均衡する通貨及び信用総量の長期的成長を維持する」

 と連邦準備法にある。これはかってのハンフリー・ホーキンズ法の趣旨を反映した条文であるが、議会にもこの雇用と物価の両方への重視が強いことはすでに述べた。このようなダブルスタンダード批判について、バーナンキはここでインフレターゲットの柔軟性を強調し、雇用と物価双方にどんなウェイトづけを行っても首尾一貫したインフレターゲットの援用が可能である、と断言している。バーナンキ議長の意思が強固なことが伺われる。: