福田徳三と中国

 福田徳三論のために共著論文のうち自分が貢献したところだけを再編集したもの。関連するエントリーは、ここの日中経済学交流史http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061124#p1のところ。姜尚中がかって『オリエンタリズムの彼方へ』(岩波書店)で、福田徳三の朝鮮史観を植民地支配の肯定として批判的に読み、そこで福田の認識の限界を規定したことがある。姜尚中論説の狙いは、日本の近代化の視線が、日本流オリエンタリズム(朝鮮をはじめとしたアジア諸国の支配正当化を伴うアジア史観)に呪縛されていることを指摘した戦略的な論説であった。本稿では、福田の論説の実証的な分析から、姜尚中の福田批判が福田のキャリア全体からみてかなり限定的な評価にとどまることを示唆しようとしている、ともとれる。なお、福田論には朝鮮論も収録予定。

福田徳三と中国

1 はじめに

 中国大陸への日本の経済学の紹介やその影響については、実藤恵秀の文献的な調査(実藤(1945)など)を除けば、概ね河上肇研究の一環として詳細で厚い調査・検証(一海(1982)、後藤(1990)、三田(1999、2000、2003)等)が加えられているだけであった。例えば、中国大陸への経済学(マルクス経済学と非マルクス経済学)の伝播の中で、日本経済学の伝播がどのような意義をもったか、あるいは反対に中国での経済学の成果は日本にどのような影響を及ぼしたか、そのような巨視的な視点での研究が欠けているのは、日本と中国の文化交流史という視点で考えたとき、極めて遺憾な状況といえる。また個別研究の次元で捉えても、先の河上肇の中国大陸への紹介という研究の蓄積は特筆に値するとはいうものの、それ以外の日本の経済学者がどのような形で紹介され、また影響を与えたのか、あるいは逆にどのような中国大陸の経済学者が日本の経済学に影響を与えたのか、いくつかの例外的な業績(後藤(1992)、石川(1992)等)が存在するものの体系的な研究はいまだない。
 本稿の課題は、上述した日中の経済学交流史の一例として、20世紀前半の日本において、河上肇と並び称される代表的な経済学者福田徳三が、どのような形で中国に紹介されたかを検証することである。この研究はまた著者が企図している日中経済学交流史に関する包括的な研究の一部をもなすものでもある。

1 福田徳三の中国論

 福田の著作は上海の内山書店では、河上肇の著作と並んで人気があった2)。また中国では福田の著作が多く掲載された雑誌『改造』もよく売れており、日本語を解する中国知識人にはよく知られた名前だったと思われる3)。
 福田の著作が、名前こそ表示されていないが、中国の社会思想に大きな影響を与えたと思われる最初の機会は、李大訢の「我的馬克思主義観」(「私のマルクス主義観」)(前半は1919年、後半は1920年)によってである。中国知識人界への本格的なマルクス主義の紹介を告げるこの著名な論説の前半が、河上肇の「マルクス社会主義の理論的体系」(1919)に基本的に依拠していることはよく知られている4)。また後半の『資本論』の経済学的部分の解説(とその批判)については、後藤延子が論証したように福田徳三の著作『続経済学研究』所収の論文「マルクス資本論』第三巻研究の一節」、「マルクスの不変・可変資本とアダム・スミスの固定・流通資本との関係」、さらに「難解なるカール・マルクス」と『続経済学講義』の一部に基本的に依拠したものであった5)。李大訢と河上・福田という同時期の日本を代表するふたりの経済学者が、この中国社会思想史上画期的な論文の源流を構成することになった意義は大きいだろう。さらに福田が1922年に北京大学など中国各地で講演を行った際に、李大訢や胡適らと対談する機会があった。福田の記述によれば、宗教排斥運動について論を闘わせたという6)。
 ところで福田はまた中国の経済史や経済思想、さらにはその政治的動向について強い関心を生涯にわたり持ち続けた。その該博な知識の一端は、中国訳になった『経済学原理』などの著作を中心に窺うことができる。また福田は「稿本支那経済史体系」を『商学研究』(1924-1927、四巻二号--六巻三号)に連載し、それに序を寄せ、日本の経済思想・経済史研究だけでなく中国経済思想・経済史についての原典紹介や研究の普及を主張した。福田は、先にも述べたように、中国大陸への出張中、当時の中国社会や思想についての知見を深めて、その成果を帰国後の講演(「世界経済の恢復と日本・支那・米国の使命」、「支那に於ける新思想運動と支那文明の将来」として『如水会壬戌大会録』に収録)で披瀝した。また晩年にも雑誌『改造』の求めで、後藤新平、載天仇(孫文の盟友)らとの座談会「日・支・露問題討議」(1926年、『改造』四月特別号)を行い、引き続き中国の政治問題への関心の深さを示してもいる。
 福田の(主に20年代前半における)中国観については、論説「世界経済の恢復と日本支那米国の使命」(1922年)が明らかにしている。
 まず、福田は徳川時代鎖国が欧米列強とは異なり、日本に「非泥棒主義」「非侵略主義」を採ることを可能にしたとし、この「誇り」は「支那」も同様であったと断定する。しかし「支那」の実状は「否反対に泥棒される国であった、又現に左様である」し、他方で日本はもはや「誇り得ざる国」となり「泥棒主義」がこの約半世紀の間漸次拡張したと主張した。別稿(田中(2000b))で指摘したが、日本をほぼ無条件で非侵略主義とみなす黎明会時期までの極端ともとれる言説を、福田はここに到って放棄していることが注目される。その上で、第一次世界大戦後、「支那の国際的共同管理又は少なくとも財政管理、鉄道管理」などの「暴論」を主張して、日本を含む欧米諸国が「資本的侵略主義の対象」として「支那」を脅かしている、と批難した。
 この「支那」(加えて朝鮮)の状況を改善する方策として、福田は主にふたつの提案を行っている。第一に、「支那」経済の「資本主義化」の促進であり、いわば経済の自立化とでもいうべき主張である。第二に、対外的に欧米や日本のような資本的侵略主義の採用を断念することである。
 さらに福田は第一次世界大戦後の世界秩序の再構築に、「支那」が積極的に関与すべきだとも主張している。ベルサイユ講和会議後、ドイツは多額の賠償金を命じられた。このことは福田の眼にとっては欧州経済が不況に陥り、さらには次なる大戦の遠因とも映った。なぜならドイツの経済的苦境により欧州各国の貿易が不振になり、それが原因で欧州全体の経済が停滞するからである。よって福田は『平和の経済的帰結』を書いたJ.M.ケインズと同じように、ドイツへの戦時賠償の放棄を訴えるのである。しかし、フランスなどは戦時中に累積した対外債務の負担で、ドイツへの賠償請求権を容易に放棄できない。したがって、フランスなどの対外債務を大規模に免除できるのは、いまや経済大国であるアメリカ合衆国しか存在しない、と福田は指摘する。
 このアメリカの対外債権放棄を促すために、まず日本が率先して対外債権の放棄をすべきだと、福田は主張した。だが、現在の日本はインフレに見舞われ、国民生活は苦境にある。それゆえ、「支那」は日本に食糧などを輸出し、「日本をして後顧の患なからしめ」よ、と説いた。その上で、「日本と支那と共同に」対外債権の放棄をアメリカに「提議」すべきだと福田の論は続く。
 この提案の要諦と思われるのは、「日本は一日も早く今支那を脅かしつつある世界的資本侵略の仲間から」脱退すべきだと断言しているところである。しかし、このような楽観的な日本の資本的侵略主義放棄論は、さらに後年に到っては悲観的な色調を帯びたものに変化している。福田は1926年の年末に載天仇らと対談した中で次のように述べている。
 「日本は資本主義の国であり対外的にも帝国主義の色彩がないとは云えない。そして日本はそれを脱却し得ない国柄であるかもしれない(略)日本の発展が帝国主義的、利権侵略的であるとするならば、決して真正確固たる日支の親交は望み得られないものではないか。結局先へ行って衝突するものなら、親交親交と今骨を折つて見たとて何にもならぬ様に思われる」(下線は引用者)。
 もちろんここで福田は日中の親交を否定しいているのではない。彼の本意は、日本の帝国主義的な侵略への批判にあったのはいうまでもないだろう。そして福田の悲観的な予測は、彼の死後不幸にも的中してしまったのである7)。

2 福田徳三著作の中国語訳

 福田徳三の著作の中国語訳には以下のものの存在が確認できている。
 金●光重訳『日本経済史論』(福田徳三のドイツ語原著『日本における社会及び経済の進化』を和訳した坂西由蔵訳『日本経済史論』からの重訳)。民国十九(1930)年4月に上海華通書局から発行されている。内容は、坂西由蔵訳に完全に準拠している。まず原訳者序文(坂西由蔵著)、原著編纂者序論(ルヨ・ブレンターノ著)、原著者書簡(福田徳三が千駄ケ谷三素書房に宛てたもの)、例言、第一章から結論までの本文、そして参考書目からなる。金の経歴などは現在のところ不明である。
 福田の中国への紹介という観点からは、本訳書よりも注目すべきなのは以下のものである。
 陳家●訳『経済学原理 巻上(生産篇)』。民国十九(1930)年12月に上海暁星書店から発行されている。二年後に再版が出ている。また同訳『経済学原理 巻下(流通篇)』民国二十二(1933)年4月、上海暁星書店発行である。前者は、福田徳三の『経済学原理(総論及生産篇)』の訳、後者は『経済学原理(流通篇)』のそれぞれ全訳である。翻訳は、改造社版の『経済学全集』(前者は1928年、後者は1930年発刊)所収のものに基づいている。しかし『経済学原理(総論及生産篇)』の中国語訳は以下に記すように、改造社版の原形となっている『国民経済講話』(1917年(佐藤出版部発刊)。後に訂正増補され後者の二冊を統合して大鐙閣から『国民経済講話』として1921年に発刊、さらに同文館版の福田徳三『経済学全集』の第二集(1925年)に同題名で収録。改造社版はこの同文館版に編別を修正などして発刊)、『労働経済講話』(1918年(佐藤出版部発刊))『資本経済講話』(1919年(佐藤出版部発刊))の三冊の表題を生かすものとなっている。『経済学原理 巻上(生産篇)』については国家図書館に所蔵されているものが三分冊になっていて再版のものである8)。各三分冊の構成を次に記す。第一冊は、「総論(原名国民経済講話)」であり、内容は「第1巻 総論」、「第2巻 生産総論」に分かれている。第二分冊は、「生産篇 上(原名労働経済講話)」であり、内容は「第3巻 労働」となっている。最後の第三分冊「生産篇下(原名資本経済講話)」の内容は、「第4巻 資本」、「第5巻 資本的組織」であり、そして「附録」として「福田徳三著述目録」が付いている。福田の死(1930年)後の出版だけあって、改造社版『経済学全集』の『経済学原理』にある同じ構成の著述目録に比べて、福田の最後の著作『厚生経済研究』についての書誌情報も記載されている。
 後者の『経済学原理 巻下(流通篇)』は、福田原著『経済学原理 流通篇』の全訳である。全一冊に綴じられており、内容は「第1巻 流通総論」、「第2巻 流通各論」からなる。
 陳訳書には「生産篇」、「流通篇」ともにその巻頭に馬寅初の序、そして陳の序(いずれも同文)が付せられている。「流通篇」の方は陳の肖像写真が巻頭を飾っている。
 序文を寄せた馬寅初(1882-1982)は、20世紀における中国の経済学・人口論の第一人者である。馬は民国時期に主に中国の財政・金融・貨幣問題の分析に卓越した能力を発揮し、多くの業績を残した。イェール大学留学の経験からもわかるように、馬の経済学の基礎は、新古典派的な経済学であり、その金融論を中心にしてI.フィッシャーの影響が色濃く反映している。馬は民国時期における代表的な教科書・体系書のひとつ『経済学概論』(1938、増補改訂版1947)で、限界主義分析の手法を積極的に取り入れ、従来の古典派的・歴史学派的な経済原論の枠組みの改変に寄与した。馬の経済学的素養が、福田の限界主義的分析を基本(のひとつ)とする経済学体系と共鳴したと予想することは難しいことではないだろう。馬はまた日本の経済や金融問題についての著作も多く、さらに民国時期の中国の経済学者としては例外的に日本語訳を数点有していたことも注目に値する9)。馬は人民共和国成立(1949年)後、北京大学校長、中央人民政府委員、政務院経済委員会副主任などの要職を歴任した。しかし毛沢東などが推し進める工業化や人口政策のあり方を巡る理論的・政策的論争から“中国のマルサス”と批判されて失脚し、大躍進・文化大革命時期は不遇だった。1979年に名誉回復し、北京大学名誉校長及び中国人口学会名誉会長の栄誉を受けた。今日の中国の人口政策(「計画生育」政策)に影響を与えたといわれる著作『新人口論』(1957)は馬の数多い著作の中でも特に著名である。
馬の序文では、経済学がまだ比較的若い学問であり隆盛を誇っていること、そして日本の経済学の発展が進んでいること、さらには中国への経済学の吸収が急務であることを述べている流暢闊達な名文である。ただ福田への賛辞はあるものの、その著作や業績への評価に立ち入ったものではない。それに比べて陳の序は、福田への独自の評価が見られるものとなっている。
 陳の序では、「彼の最大の卓見は、第一に、従来の生産、交換、分配、消費の四分法を打破し、ただ生産と流通の二部に分け得ることを主張したことである。第二に、経済必須の欲望より説き起こす伝統学説を打破し、収支適合論をもってこれに代えたこと。第三に、現在の経済生活が企業中心の経済生活、価格中心の経済生活であることを明らかにし、よって実際の経済状態に最も適合し得たことである」と書かれている10)。
 陳は福田の著作の要点を三点(生産・流通の二分法、企業の役割の重視、収支適合論)に絞っているが、以下では陳のこの解釈を念頭に置きながら、福田の著作(『経済学原理』)の内容について簡単に解説しておこう。

3 福田徳三『経済学原理』と陳家●『生聚経済学』

 福田は生涯にいくつかの体系的な経済学書を書き残している。そのすべてが研究書というよりも学生や社会人を対象とした教科書的・啓蒙的な水準のものである。しかし、それらの原論的な著作にはその時々の福田の経済学体系の特徴が如実に表現されているのも事実である。
 福田の最初の体系的な経済学書は、『国民経済原論』(1903)である。フックスの『国民経済学』(1902)に基本的に沿った歴史学派経済学の特徴が色濃く反映した著作である。その後、A.マーシャルの影響を受け、慶応義塾での講義をもとにした限界主義経済学の成果を系統的に取り入れた『経済学講義』(1907-9)を刊行している。ただし、福田は歴史学派経済学に対して批判を強めるものの、(1)経済発展論的観点(人類学的観点をも含める)、(2)経済行為と経済組織の判別、など歴史学派経済学的観点を、福田流に解釈・修正し最後まで維持し続けた。
 陳の訳書の原書である『経済学原理(総論及生産篇)』、『経済学原論(流通篇)』にも歴史学派的要素と限界主義経済学の要素、さらにはマルクス経済学の要素が混在し、独特のタペストリーを織り成している。福田が最終的にどのような経済学体系を構想していたかをここで論じることはしないが、この陳の訳書のもとになったと思われる改造社経済学全集版の『経済学原理』が完成(後記するように実は未完成)するまでには長い時間を要している。
 改造社版の原形(「流通篇」の第一編、第二編以外は、以下の諸著作がほぼ完成形態でもある)の『国民経済講話』が大正六(1916)年に刊行、『労働経済講話』は翌大正七(1917)年、『資本経済講話』が大正八(1918)年に刊行されている。また福田の証言によれば、大正十四(1928)年に刊行された『流通経済講話』の大半が大正七年に完成しており、また大正十二(1923)年に書き加えられたのが第一編、第二編だという。福田はこの第一編、第二編に続いて、全体の改変とさらに流通論の後半部分(価格論の残り半分と所得論、結論)の執筆を考えていたらしいが、欧州旅行や晩年は体調を崩し結局完成できなかった。そのため、福田の『経済学原理(流通篇)』の第一編、第二編はそれ以外の箇所とは異る「経済と権力」の問題をテーマ的にも幅広い視点から取扱おうという意図がうかがえるものであった。いわば、『経済学原理』は未完の大著であり、いくつかの不整合・未解決な部分さえ残している。
 福田の経済学体系の大きな特徴は、経済を規則的な経済取引が繰返される「循環過程」のシステムとして捉えたことにある。福田は従来の経済学の体系(イギリス古典派経済学の伝統として福田は考えている)が、生産・交換論・分配論・消費論としているのは、経済を「循環過程」として捉えることはできないと指摘する。なぜなら、その四分法は、生産は(貨幣)価値のある物を作り出す、その価値は最終的に消費によって無くなってしまう。交換や分配は価値のやり取りや各階級への価値の分かたれることにすぎない。簡単にいえば、生産--交換--分配--消費、と価値は「只一本道」をいくだけで終ってしまう、と福田は考えている。しかし、今日の経済はたえず循環している。
 「今日の経済生活の本体は消費に終らないで、作られた所の富は、更に資本となって、生産に用いられて殖える。殖えたものが又資本化せられて、生産に用いられ、又殖えると云う、此行程を断えず繰返して行って居るもの、是れであります」(11)。
 資本の無限の増殖過程として経済の「循環過程」を考えるという視点から、この「循環過程」は「貨幣価値の作り出し」である生産と、「貨幣価値の移転」たる流通のふたつの過程に分かれるとした。従来の交換・分配は消費とともに流通論に吸収されるとする。
 「生産に於ては貨幣価値が作り出されます。流通に於ては此の貨幣価値が価格となり所得となつて、夫々帰着す可き処に帰着するのです。故に生産は貨幣価値其物の立場から物事を観察しますが、流通は此貨幣価値を受取る経済主体の立場から観察するのです。此が区別の根本であります。従来交換・分配と分けまして、流通も矢張り富と云う立場から見て交換されるのだ、富が分配されるのだと説きましたのは実際に合いません。流通に於ては如何なる人が如何なる富を受取るかと云う様に人から見なければならないのであります。生産に於ては人と物との関係が大切であります。流通に於ては人と人との関係が中心となつて居ります」(12)。
 さて経済の循環過程を担う最も重要な主体として福田は、「企業」の存在を挙げている。企業は貨幣価値の余剰をもとめて営利行動をする。企業は未知の領域に危険を冒しながらも積極的に投資をして、その危険負担の対価として企業利潤を得る。さらに獲得した企業利潤を再び資本の増殖を目的に投資し、経済は循環していくことになる。企業はまた土地・人口のような「自然的根本事実」と労働・資本のような「文化的生産要素」を結合して、生産行動を行うという役割ももっている。まさに企業は経済の循環の担い手であり、その調整役として資本主義経済の主役なのである。
 この企業は「収支適合」(支を少なくし、かつ収を多くして実現する)という行動原理をもっている。この「収支適合」は、ひとり企業だけでなく、消費者やまた経済全体を主導する原理である。今日風にいうならば、制約条件の下での目的関数の値の最大化(あるいは最小化)ということだろうか。ともかく福田は「収入」と「支出」はあらゆる経済主体や経済の局面でバランスをしていなくてはならないとした。家計はこの収支適合を行いやすいが、企業は不確実性に直面しているので収支適合しにくい。いいかえれば、その収支適合の困難を引き受けることで、企業は利潤を得ているともいえる。
 福田は、人の経済行為とは価値判断(どれが生命の向上に役立つか否か、という判断)を行いながら、この収支適合を図ることであると述べている。
 「支那の言葉に、富は屋を潤し、徳は身を潤すと申す、其徳とは即ち善であります。徳は身を潤しますが、富は必ずしも身を潤すとは限りません。即ち倫理上の善であるとは限りません」(13)。
 しかし、個人もまた社会全体も価値判断を行いながら、すなわちどれが自らの生命を向上させるかを判断しながら、収支適合の原理によって経済行動を行っている、と福田は説いている。すなわち、「善と財とは終局的に一致する」というのが、福田の経済観の根本である。福田は、また別様な表現で、「経済とは、生活維持の充実による厚生増進」であるとして、彼の「厚生の経済学」の意見を表明してもいる。
 陳の序は以上のような福田の経済学体系の要所を適確に捉えてはいる。ただ序での言及が主に生産論を中心としたものに留まるものであることは注意を要する。例えば、福田は『経済学原理(流通篇)』において、「経済学の理論の中、一番中心になるのが此の価格論」であるとして、賃金・地代・利子・利潤といった所得(福田の用語だとこれは「価格」でもある)決定理論を展開しようと試みた。その作業は未完に終ったが、福田は「流通篇」の公表された部分で、その基本構想たる価格決定原理として当事者同士の経済余剰をめぐる相対的交渉の重要性を指摘している。福田は『経済学原理』では十分に書きえなかったが、他の著作(『経済学原論教科書』(1924)、『社会政策と階級闘争』(1921)、『厚生経済研究』(1930)など)でこ「経済と権力」をめぐる交渉理論や、価格決定の基準たる「限界余剰収益均等法則」などを主張しているのだが、陳の序に触れられていないのはやや残念なことである。
 福田の中国への紹介者である陳家●については出生、留学の有無を含めた学歴などの経歴は、現時点では残念ながら不詳である14)。彼は1930年を境にして猛烈な勢いで著作や訳業を世に問うている。陳の主著は、福田の著作『経済原論教科書』に基本的に依拠した『生聚経済学』(1933)と、またヘンリー・フォードの伝記『福特伝』がある。訳書としては、原物を確認できたものはすべて日本の経済学書からの翻訳であり、福田の著作の翻訳以外では、『商業政策』(津村秀松原著、1928年、上海商務印書館発行)、『土地経済論』(河田嗣郎原著、1932年、上海商務印書館発行)を知ることができた15)。陳は『生聚経済学』序文に本書の執筆動機などについて書いている。
 1931年9月の満州事変から約二年後に書かれた陳自身の序文は、『易経』、『孟子』、『論語』などを縦横に引用した古風な文体を呈している。文章こそ古風であるが、日中戦争下という当時の状況を強く意識し、古典の言葉を借りて中国の危機を闡明し、その打開策を経済学の普及に求めるという、陳の実践的意図が表明された序文である。長文にわたるため訳出は割愛したが、『生聚経済学』の「生聚」について、序に述べられた陳の意図を若干説明しておく。「生聚」の二字は、越王句践の故事から取られたものであるが、「生」はここでは必ずしも人口増殖の意味ではなく、生活そのもの特に精勤を惜しまない生活のことである。「聚」とは、財を集積することである。つまり「生聚」には、民生を自律的に向上させ、国家の富を増進させるという意味が込められているのである。『生聚経済学』は先に書いたように福田の著作『経済原論教科書』に大部分基づいており、過半をその翻訳で構成している。しかし陳独自の観点からなる記述も多く、また福田の見解との差異を窺うことが可能である。さらに陳と福田のものとの最も顕著な相違は、前者には後者にない各章ごとに復習問題・応用問題がついていることである。例えば、「我国の貧弱の原因は、資本関係にあるのか、それとも労働関係にあるのか?」や孔子孟子などの四書を利用した出題が目に付く。以下に『生聚経済学』の構成を挙げておく(編、章はすべて記載。節を挙げてあるのは後述するが福田の著作とかなり異る箇所のみ。「……同じ」とあれば福田の『経済原論教科書』の忠実な「訳述」である)。
生聚経済学
第1編 総論 第一章 経済の基礎概念……福田と構成・内容など異る(後述)
第一節 我々の生活
第二節 欲望・行為・満足
第三節 価値
第四節 我々の価値生活
第五節 経済の意義
第六節 貨幣及び貨幣価値
第二章 個人経済・国家経済・国民経済……同じ
第三章 国民経済の発達
第一節 国民経済の発達順序……同じ
第二節 経済発達の順序……ほぼ同じ
第三節 我国経済発達の概略……福田と異り中国の経済史
第四章 経済学の意義……ほぼ同じ
第二編 生産 
第一章 生産総論……同じ
第二章 生産要素……同じ
第三章 企業……同じ
第四章 土地……同じ
第五章 労働……「労働の組織」の記述について若干異る
第六章 資本
第一節 資本の性質……ほぼ同じ
第二節 資本の種類と利子……福田では「資本の種類」のみ。利子についての記述はない。
第三編 流通 
第一章 総論……同じ第
二章 貨幣及び信用……第四節で制度面の記述が中国に合う形で改変されている以外は忠実な訳出
第一節 貨幣の意義……同じ
第二節 貨幣の材料及其の発達……同じ
第三節 本位制度……同じ
第四節 グレシャムの法則及鋳幣制……ほぼ同じ
第五節 紙幣及び銀行券……同じ
第六節 信用……福田の著作の第六節「貨幣の価値即ち購買力」第七節「信用」になっているが陳の方は第七節のみで第六節は削除
第三章 価格
第一節 流通の原理……同じ
第二節 価格の意義……同じ
第三節 価格の本質……同じ
第四節 価格と価値……同じ
第五節 価格決定の原因……この第五節は、福田の第五節「価格決定の諸事情」、第六節「需要供給の品質上の強弱」、第七節「需要供給の数量上の大小」、第八節「貨幣利用及び支払能力の大小」で構成されている。福田はこれらに続いて、第九節「限界余剰収益均等の法則」という福田の中心的な主張を述べた個所があるが、陳では扱われていない。
第四章 所得……同じ
第五章 結論……過半が同じ

 上記の対照から、両者がその最初部と後半部において相違があるものの、ほぼ福田の著作の訳述を基本にした内容となっている。福田の『経済原論教科書』では、第一章は、第一節「計慮の行為」、第二節「厚生の努力」、第三節「利用・費用の計慮」、第四節「価値」、第五節「貨幣及貨幣経済」となっている。節の編成はかなり異るが、多くの記述が重なっている。大きな違いは、福田の方は、第五節「貨幣及貨幣経済」において、陳が福田の『経済学原理』の特徴のひとつとして挙げた収支適合論を説明しているのに対して、陳の方は収支適合論にほとんど言及していないことである。むしろ、陳自身が『経済学原理』の序で書いた「経済必須の欲望より説き起こす伝統学説」と同じように、総説といえる第一節をうけて、第二節で人間の活動の目的を欲望の満足に求めるとする記述から始めるなど、福田との異りを見せている。また福田の自生的な市場秩序観の要ともいえる「限界余剰収益均等法則」については記述を一切行わなかったり、福田の経済学の標語ともいえる「厚生」についてもそれに該当する概念は見当たらないなど、福田の理論体系の理解に疑問が残る処理も目立つ。
 陳が最も福田の教科書を離れて、自らの主張を述べているのは、やはり自国の経済発展の歴史を簡潔にまとめた第一編第三章第三節「我国経済発達の概略」であろう。そこで陳は中国の経済史を、「漁猟経済時代」「農業経済時代」「工商経済時代」などとわけ、秦漢時代は分業が進み、また市場の形成が進展したと記している。その一方で、自足自給経済と流通経済がこの時代は並行して存在していたとも記している。そして秦漢以後はむしろ経済は退化したとも断言し興味深い。
 近代については、清末の五国通商条約の成立により、欧米から過剰な外国製品が流入し、自国製品の市場が衰退し、農村が荒廃したと指摘している。また世界の列強は、自足自給経済を目標とし、日英のように「関税戦争」を開始している。中国は物産が豊富で国内市場はまだ未発達であるから、国内消費の余力はかなりある。勤倹貯蓄に努力し、国産品を愛用し、外国製品を用いるのを戒めよう。自給自足を打ち立て、外国との交換経済は補助手段とすべきである、と陳は主張している。
 これは福田が1922年に北京大学で行った一連の外国資本排斥や中国の経済自立化の提唱とまったく同じ論旨である。陳の経歴は不明であるが、福田の講演を聴いた可能性はないのだろうか。
 陳の著作は、福田の経済学体系の一層の発展を目指したというよりは、福田の著作をより中国の学生・知識人にわかりやすく説いたものであり、後半の「限界利用逓減法則」についての記述などは、福田の訳書と同様に限界主義的経済学の要旨をよく伝えることに貢献したに違いない。
 民国時期には、多くの外国の経済学が輸入された。その中で、日本の経済学はソ連やドイツなどからの著作と共に大きなウエィトを占めた。陳の紹介した福田の業績もその中にあって網羅的な体系書、啓蒙書として一定の価値を持っていたと思われる。

<注>

1)本稿は田中秀臣・三田剛史「福田徳三の中国への紹介」(MHET NEWSLETTER第三号、83-97頁)のうち田中担当分に手をくわえて掲載したものである。本稿作成にあたって、中国語文献の資料蒐集などで張武静氏(早稲田大学(院))、日本語資料などの蒐集で金沢幾子氏(一橋大学図書館)に格別の便宜をいただいたので、ここに感謝いたします。
2)内山(1949)参照。
3)福田徳三の名が、中国知識界の人口に膾炙していた傍証として、当時の辞典類への福田徳三の掲載があげられる。以下は三田剛史が確認したところであるが、『法律政治経済大辞典』(長城書局〔上海〕、1934年)、『思想家大辞典』(世界書局〔上海〕、1934年)、『経済科学大詞典』(世界書局、1935年)、『世界人名大辞典』(世界書局、1936年)、『経済学辞典』(中華書局〔昆明〕、1940年)、『中外人名辞典』(出版者、出版年未詳)にそれぞれ福田徳三の項目がある、とのことである(田中・三田(2001)参照)。
4)斉藤(1970−72)を参照。
5)後藤(1992)を参照。
6)福田(1925)所収の同名論文を参照。北京大学での講演は、国際資本主義排斥を主旨とする講演であった。
7)福田の中国観については、同じ載天仇らとの対談の中で、孫文三民主義の教えと、ロシアの革命主義とが対立し、「或る所まで進んで行つた後には、折角支那を援ける露西亜が、あなた方の敵になりはしないかと思ふ」と述べていることが注目されよう。
8)初版は検索カードがあるものの今回の調査では欠本との回答を得ている。
9)馬寅初の著作は、『馬初寅全集』(〓江人民出版社、1999)にまとめられている。日本語訳著作として、『中国金融政策論』(1943)(原題:中国之新金融政策)森下修一訳、ダイヤモンド社、戦後には『人口論』を収めた『馬寅初論文集』(1961)出版地・出版社不明、などがある。
10)訳文は、田中・三田(2001)の三田訳出部分による。なお同書からの訳出は以下断りないかぎり同論文での三田訳出からの引用である。。
11)福田(1930)317頁。
12)福田(1927)215頁。
13)福田(1927)201頁。
14)田中・三田(2001)によれば、「1920,30年代のもの、1949年以後のものを含め、中国で発行されている人名辞典等に、陳家〓の項目は見つかっていない。ただし、日本人橋川時雄が編纂し、北京で発行された『中国文化界人物総鑑』(中華法令編印館〔北京〕、1940年)には、次のような記述がある。「陳家〓 未詳―X(引用者注―生年未詳、在世中の意) その閲歴未詳、日本人の経済に関する著述を訳述している。「社会進化論」(福田徳三著、群益書局出版)、「国際経済問題」(堀江帰一原著、民国十七年商務印書館出版)「土地経済論」(河田嗣郎原著、十九年同上)、「社会経済論」(金井延原著、光緒三十一年群益書局出版)、「最新化学教科書」(亀高徳平原著、民国元年同上)、「商業政策」(都村秀松原著、民国十七年商務印書館出版)、「工業範(引用者注―ママ)記」(吉田良三著、十五年同上)など。」陳家〓による中訳書『社会進化論』については未確認」となっている。
15)他に『経済学原理』の奥付の広告から、陳の業績として『社会経済学』(『民国時期総書目 経済』などから金井延原著『社会経済学』の翻訳と思われる)『貨幣論』『銀行原論』『銀行簿記』『工業簿記』『商業簿記』『国際経済問題』が出版されていたことがわかった。

<参考文献>

石川禎浩(1992)「マルクス主義の伝播と中国共産党の結成」『中国国民革命の研究』京都大学人文科学研究所。
一海知義(1982)『河上肇そして中国』岩波書店
内山完造(1949)「本と著者と読者」河上会編集『夜あけ』第一集
後藤延子(1990)「李大訢と日本文化--河上肇・大正期の雑誌」『国際化と日本文化』(信州大学人文学部特定研究班)。
後藤延子(1992)「李大訢とマルクス主義経済学」『人文科学論集』(信州大学文学部)。
斉藤道彦(1970-72)「李大訢 私のマルクス主義観」『桜美林大学 中国文学論叢』第二巻・第三巻。
実藤恵秀(1949)『中訳日文書目録 』国際文化振興会
田中秀臣(2000)「福田徳三の朝鮮観」『上武大学商学部紀要』第12巻1号。
田中秀臣(2001)「福田徳三:テーラシステム批判と産業合理化」『産業経営』。
田中秀臣・三田剛史(2001)「福田徳三の中国への紹介」『MHET NEWSLETTER』第三号、83-97頁
福田徳三(1925)『経済学全集(第6巻(下))』同文館
福田徳三(1927)『経済学原理(総論・流通篇)』改造社
福田徳三(1930)『経済学原理(流通篇)』改造社
三田剛史(1999)「中国マルクス主義の発展における河上肇の位置」『東京河上会会報』No.72。
三田剛史(2000)「中国人怎様看待河上肇」『“日本与東北亜:歴史、現状与未来”国際学術研討会論文集』天津社会科学院。
三田剛史(2003)『甦る河上肇』藤原書店