若田部昌澄「白川日銀総裁の「出来ない集」」&「大不況期以降のマクロ経済構想‐金融と通貨を中心として」


 白川総裁については僕の周辺でも「学究肌ゆえに政策転換は理屈がとおればやるかもしれない」という僕には支持しかねる見解があるのですが、この若田部さんの論説はその「学究肌」の負の側面を描いたものといえ僕と問題意識を共有しています。

:こうした日銀の「理屈」を皮肉って「日銀流理論」と名づけたのは、ほかならぬ小宮氏であった。その高弟が日銀流理論の担い手になるとは歴史の皮肉である。
 しかし、そうとばかりもいっていられない。実際にも白川氏はゼロ金利量的緩和といったこれまでの日銀の政策に対しては、効果が「限定的」であるとしてきわめて批判的であった。とすると、今後の政策運営についても白川氏は、「できる」ことよりも「できない」ことを強調するかもしれない。それでよいのだろうか。:


http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20080514-01-1401.html


 また若田部さんが先日の経済学史学会で報告された論説「大不況期以降のマクロ経済構想‐金融と通貨を中心として」は、題名のように大不況期そしてそれ以降のリフレーション経済学の流れを適確に要約したもので非常にわかりやすいです。この時期のアメリカ経済学の進展は、例えば竹森氏の『経済論戦は甦る』の直後の歴史でもあり相互補完的に読めるはずです。そしてデフレは貨幣的現象=貨幣数量説の現代版(ここで紹介されている飯田さんの本を参照されたい)の妥当性がこの大不況期以降にクローズアップされるべきであったのにもかかわらず、事態は逆に貨幣数量説の没落が学派形成としてあった、というのは面白い視点でした。


http://society.cpm.ehime-u.ac.jp/shet/conference/72nd/72paper/38wakatabe02.pdf


:この時代を概観してあらためて気付かされるのは、貨幣理論・政策思想史における貨幣数量説の果たした役割である。それは時に主役として、そして時に敵役として貨幣経済理論・政策思想の中心にあり、安定化論の発想は貨幣数量説と密接に結び付いていた。しかし大不況後に現実に起きたのは、安定化論の勝利であると同時に、貨幣数量説の没落であった。この思想の転換と大不況後の合意形成がなぜ起きたのかはきわめて興味深い。 略 ことに大不況のような経済危機の時代においては、各種の構想が多数提出され、構想をめぐる闘争が勃発し、その過程で予想外の同盟の形成と崩壊が生じる。経済思想史における学派概念の意味についても再考が必要であろう。: