宇沢弘文翁の怒り


 『週刊文春』の書評に宇沢翁登場。内橋克人の『悪夢のサイクル』をとりあげて、同書に展開されている、ミルトン・フリードマンシカゴ学派らの主張を「市場原理主義」とし、彼らの経済思想が「ネオリベラリズム循環」を招来することで、日本が市民的権利を尊重していたリベラリズム的性向の安定した社会から、経済・社会格差が拡大したきわめて不安定な社会になったとする。


 宇沢翁曰く、「市場原理主義は…社会の非倫理化、社会的靱帯の解体、文化の俗悪化、そして人間的関係自体の崩壊をもたらすことになった」。その象徴が、2005年7月9日の「経済教育サミット」の基調講演での福井俊彦日銀総裁の発言だという。


 福井総裁の発言というのは、宇沢翁によれば「大切なもの」をお金にかえてしまうという「破廉恥極まりない発言」だという。


宇沢翁曰く、「「大切なもの」は普通、お金には代えられない、あるいは代えてはいけないものである。人生最大の悲劇は「大切なもの」を国家権力に奪い取られたり、追い詰められてお金に代えなければならなくなったときである」。


 福井総裁が倫理的な意味で「破廉恥」なのはもう日本国民の多くには周知のことなので問題ないとして 爆 問題は当然に「リベラリズム循環」という怪しげな概念を宇沢翁が持ち上げていることにある。


 これは規制緩和や民営化などの手法で経済の効率化をすすめる政策一般を意味しているのだろう(実は内橋氏の著作は『規制緩和という悪夢』以外読んでない、『悪夢のサイクル』は近いうちに手を出す悪寒)。確かに需要不足の状況で経済の効率化をすすめるとより不況を深めてしまう可能性がある。しかし、宇沢翁も内橋氏もともに停滞の原因を規制緩和や民営化だと考えている点で私には失当だと思われる。もちろん日本の停滞の原因を見誤って、彼らの修辞である「市場原理主義」者が政策のミスマッチを継続した、という指摘だとしたらそれなりに興味深い。


 だが、本当にそうだろうか? むしろ政策のミスマッチの典型と思われた「構造改革なくして景気回復なし」も単なるスローガンだけであり、拙著でも紹介したように少なくとも小泉政権の下では財政のスタンスはそれ以前にくらべて現状維持的であった。またりそな銀行救済に典型的なように、その政府「公認」の不況脱出策は、非効率な銀行や企業の退出を促すというよりもその延命であったことは明白である。そしてこれらの政府の政策が今般の景気回復に、他のより有力な要因である中国との交易の改善、非不胎化介入と奇しくも重なることで貢献したことも多くの論者が指摘していることであろう。つまり少なくとも表向きのワンフレーズ政治のあり方とは異なり、宇沢翁らの表現をあえて流用すればむしろ00年代前半は「逆リベラリズム循環」が起きていたともいえよう。


 むしろ宇沢氏、内橋氏らは「新古典派」批判、「マネタリズム」批判という彼らの年来の「固執」からくる一種の「悪夢のサイクル」を脳内再生産的にしている(日本語へんだがw)だけではないだろうか? 


 ただし宇沢翁の指摘は無視できない点もある。確かに「大切なもの」を「お金」で無神経に置き換えることには感情的な反発があるだろう。これはかなり普遍的にみられるリアクションである。しかし、従来はこの経済換算への感情的な反発自体を究明することはあまりなされてこなかった。最近翻訳がでたエインズリーの『誘惑される意志』はその理論的空白を埋めるひとつの試みである。


 そして福井総裁が個人的資質で「破廉恥」であることには賛成するが、それ以上に問題なのは不況の原因である日銀の政策失敗について、当の宇沢氏も内藤氏も一貫してこれまで無関心というよりも否定的だったことに問題があるだろう。


 個人の資質の「破廉恥」よりも過去の政策失敗の反省も示さずに原因を曖昧にする日銀の組織としての「破廉恥」さこそ、この老獪な大御所の批判眼にさらされるべきだったのではなかろうか? しかしそれは宇沢翁の「固執」(マネタリズム批判)をみるかぎりありえないことだろう。


 なぜなら、大停滞が中銀の政策の失敗で引き起こされるという「命題」こそ、宇沢翁たちが批判しているマネタリズムフリードマンが主張した米の大恐慌分析の核心だからである。