「癒し」の経済学とか「複素経済学」とかw


 http://bewaad.com/20061102.htmlを参照。あとecon-economeさんからの裏通報wで気が付きました*1


 で、はっきりいいましょう、日本でも有数のその途の「通」といえば僕であると。爆。


 いや、本当だってばw。ただし「通」かならずしもその「道」を賛成しているとは全く限らないわけですが。


 「「癒し」の経済学」というネーミングは、90年代のどこかの研究会で「ヒューマニズム経済学」についての論文を報告したときにこれらの一連の「愛してます人間の価値の経済学」みたいな路線を総称して表現したことがあるのですが (笑)。この「ヒューマニズムの経済学」というのは以下の訳本の著者たちが唱導したものです。


アダム・スミスの失敗―なぜ経済学にはモラルがないのか

アダム・スミスの失敗―なぜ経済学にはモラルがないのか


 この路線の歴史もまたメンバー(スミス、シスモンディから始まってラスキン、ホブソン、シューマッハーガンジーなどなど)も多彩で豊かですが、わりと最近でたサーベイ本としては以下が便利でした。まあ、正直にいえば僕はこの種の「異端」の経済学がかなり好きなわけです(好きですが批判の対象でしかないわけですが*2)。これらの研究に割いた時間を経済論戦ものに活かしているともいえるわけです。



 で、他方でこの「「癒し」の経済学」や「ヒューマニズム経済学」が「癒し」でも「ヒューマニズム」でもないことをねちっこい論証と事実検証で明らかにした傑作が先日ここでもご紹介しました著者たちによる以下の著作です。最新著の方はまだ読んでませんがあわせてご紹介。最初の本の内容紹介は若田部昌澄さんの『経済学者たちの闘い』にありますので参照ください。


The

The "Vanity Of The Philosopher": From Equality To Hierarchy In Postclassical Economics

経済学者たちの闘い―エコノミックスの考古学

経済学者たちの闘い―エコノミックスの考古学


で、お次は「複素経済学」ですが、これの「通」でもありますww そうです、気が付きましたね。例のアレですよアレ。


量子ファイナンス工学入門

量子ファイナンス工学入門


(^^;)。


ところでこの前田氏の所業(人によっては「トンデモ」)をフォーマルな形で、本来?の量子ファイナンスの中に位置づけたのが以下の本でしたよね。これは上の「複素経済学」の解毒剤というか賛成・批判両陣営の「中和剤」としても役立つでしょう。何回も書きましたがまだ半分ぐらいしか読んでない(場の量子論のところがさすがにむずいので正月休み行き)のですがwそのうちまとめをここにアップできるでしょう。


Quantum Finance: Path Integrals and Hamiltonians for Options and Interest Rates

Quantum Finance: Path Integrals and Hamiltonians for Options and Interest Rates



 ところで前者の「癒しの経済学」あるいは「ヒューマニズム経済学」はかならずしも「経済成長いらね」路線と同じではありません。この流れに経済成長重視派といえる人たちも多いのです。もちろんガンジーシューマッハー、そして日本でも近時訳本がでたデイリーらなどはまあ「経済成長いらね」派にくくられて日本でも大人気ですがw


持続可能な発展の経済学

持続可能な発展の経済学


 ちなみに「癒しの経済学」のそもそもの流行の原初たる60年代には以下の本に解説された文化的背景があることはおさえたほうがいいでしょう。それと最後の著作は先の「アダムスミスの失敗」の著者の最近著でして、まさに「癒し」を求めていくところまでいって(少なくとも経済学には)帰ってこなくなったともいえるかと思います。
(^^;;)。


意識の進化と神秘主義

意識の進化と神秘主義


Meher Baba: Avatar of the Tortoise

Meher Baba: Avatar of the Tortoise


以上のコンテキスト?を少なくともおさえて「癒しの経済学」「経済成長いらね」あるいは「複素経済学」の議論が豊か??になることをキボンしますw


「通」としてのこの「癒しの経済学」「複素経済学」路線に一言いうと「過ぎたるは及ばざるがごとし」、特にふつうの人にはww

*1:表情報にも書かれたようですhttp://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20061102

*2:よく大学院や学部レベルで、「正統派経済学」批判と称している人たちが、そもそもの「正統派経済学」をまったく理解していないことが多いのに辟易した反動で、これらの人たちを批判するにはその「正統派経済学」ならざるものに通じとかなければいけない、というのがそもそもの動機でしたが