金融政策のフレームワークの欠如

 群馬から帰ってきました。高速怖かった〜雨強いっす。

 さて昨日の続きとなります。

 山形・田中論争は当ブログにTBよせられたnami-aさんのおっしゃるように「やめよ」「やめないくてもいい」という観点でいえばあとは無限ループみたいな話になってしまい、支持・不支持ともなんだかどんづまりにきたように思えます。

 今日のbewaadさんのブログでのドラめもんさんや私の「疑念」の合理性・論理性のへ要求も、すでに私がコメント欄にレスしましたが、それなりの合理性・論理性をもっていると思います。これについてはlukeさんが詳細なレスをつけていますのであちらでまた何か議論があるでしょう。

 しかしこれから書くことはそれを再論しようというものではないです。山形+bewaad的見方もドラめもん・田中的見方もともにあまりに総裁の行動の真実だとか、彼の発言だとかにあまりにも依存しすぎた議論である点では双子みたいなものだと思います(山形さんは不満ですか、そうですかw)。例えば、私は中央銀行の信頼性の問題であると理解しているのですが、それがbewaadさんや山形さんには倫理的・道義的問題にみえてしまうようなのが意外でした。

 これはいいかえると今日の暗黒大陸さんのコメント欄でのご指摘<小泉首相や安部官房長官の表情に何故か余裕がみられるのは、今後の金融政策に人質をとったと思っているからなのでしょうか?もしそうであれば、属人的な要素で金融政策が影響を受けてしまうということになりかねないので>のように、あまりにも金融政策における属人的要素が強くでている証拠、その効果なのかもしれません。これはなぜなんでしょうか? 個人の行動の信頼性あるいは道義的・倫理的な面の評価に傾斜しないこの種の中銀の政策担当者の「腐敗」や「汚職」防止メカニズムとして何がかんがえられるでしょうか。

以下は中銀の行動規範についてのIMFの指針と各国の評価です。

http://www.imf.org/external/np/mae/mft/sup/part2.htm

また中銀の「腐敗」については、個々の政策担当者の信頼性(これには山形さんたちの解釈による道義的側面も入ります)に注目するのではなく、あくまでも政策のフレームワークに注目すべきだという指摘もあります。以下の論文はその点を指摘しています。と同時にこの中銀の「汚職」については研究の蓄積が不足している、という指摘もあります。

http://www.cege.wiso.uni-goettingen.de/Dokumente/Diskussion/discuss_16.pdf#search='central%20bank%20credibility%20disclosure%20corruption'

ところで日銀の現状をみるに政策のフレームワークが欠如している、あるいはよくいっても不十分であることが、上記した政策の属人性への傾斜に直結しているのではないでしょうか。その限りで相変わらずですが、現状では総裁の辞任が最善の選択肢でありうる理由にもなっていると思います。もしこの選択肢を採用しない場合は政策のフレームワークの構築が必要不可欠でしょう。ここでインタゲを持ち出してもいいのですがw その前に今日のゼロ金利維持の理由、今日の総裁の国会答弁の詳細をチェックしたいと思います。

上記、リンク、表現などあとで修正しますのでとりあえず)

というか原稿の締め切りなのでアセアセ。あまりレスはできないので悪しからず