いままでのメモ書き

 旧ブログからの抜粋。

●ある人からの指摘で、小野理論は新産業創出よりも新世代(ニュータイプ)に期待している理論であるとのこと。

先日、新世代消費=「オタク消費」の小野理論(http://www.geocities.jp/olympass/ono-nikkei.pdf)を紹介しましたが、確かに旧世代は貨幣自体を保有する魔に取り付かれ、その罠から脱出できない選好をもったまま、ともいえます(それだけ貨幣保有流動性の罠は小野理論では根深い。その裏面としてこの旧世代の罠を打開するほどの金融政策の帰結は、貨幣価値の瓦解ともいえるハイパーにいきなりジャンプすることも小野理論の中ではわかる気もする)。新世代こそ「オタク消費」というニュータイプとしてこの罠にそもそもかかっていない消費主体として立ち現れるということでしょう。いいかえるとこのニュータイプのウェイトが大きいほど従来型の財政・金融政策の効果が有効ともいえるように思えます。

小野理論の裏面に消費ー貨幣保有の局面からみた世代交代論が潜在するのは確かなような気がします。

ガンダム理論ですな。(^^)。いや、まじ、そう思います。とするとガンオタ?の稲葉氏がこの小野理論を支持するのもわかる気がします。

ニュータイプガンダム小野理論に、今度の稲葉振一郎著『「資本」論』のエピローグ部分をジョイントさせてみよう。

すると仮に小野的流動性の罠に陥る可能性があるならば、人は民営化会社「洗脳カフェ」にいって、プラグ?を頭に差し込んで、「ニュータイプ化」。

とりあえず新消費を行う主体にへ〜んしん。流動性の罠を回避します。
民営化会社が行っているけれどもとりあえず政策変数として政府が規制しております。

これは構造改革主義者のお好きな「人間改造計画」(参照『経済論戦の読み方』)と小野理論の美しい調和ともいえましょう。

もうインタゲで期待を操作するなんて古い古い。(^^;;;)。


●作家性というものにとりつかれております私は、戦略的には富野由悠季氏の監督・総監督作品にまずは絞ってみたいと思っております。で、富野氏のまとまった経済思想モドキが展開されている数少ない資料が

戦争と平和』(富野由悠季、interview with 上野・大塚・ササキバラ徳間書店 2002年 でございます。

戦争と平和 (アニメージュ叢書)


同書の67頁ぐらいから76頁ぐらいにかけて雑駁に語られているという印象ですが(ササキバラ氏を相手に主に展開)

① 今後の日常への「戦場」の偏在化(テロリズムをイメージしておきます)を抑えるのは市民や国家ではなく「経済」。特に世界企業が地球上に偏在していく。AE社ですかな?
② この世界企業(コングロマリット)をささえるのは消費者。「消費者が必要だから、実際ジェノサイドをやってはならないというところに、基本的にぼくは立っています」(72頁)。
なるほど消費者主権ですかな?
③しかし話はそれで終りではなく、この消費者の欲望をコントロールする新しい価値判断が必要。使える携帯を棄てて新しい携帯に乗り換えるような消費スタイルはおかしい。原始共産制でもなく、ゼロ成長でもない(かもしれない)姿を模索する必要を富野氏は考えているようです。
 「だから自由であるべきだと思うんだけれども、その自由を扶養できる、つまり個人が許容できる自由の範疇と消費量というのはどういうものかをかんがえて、我々は自意識をもって行動しなければならない時代がそろそろきたのかもしれないと考えるわけです」(75)。
 富野氏のこの経済観というのは私などはニード(必要)の問題として、『アダムスミスの失敗』などで考えた問題でもありました。ニード論には批判すべき点が多々ありますが、まあ、それはそのうちということで。

 ところで進化心理学では(おおっといきなり話題をとばした)、人は必要量以上の脂肪分を摂取する心性をもっているそうですから、これを富野的ニード論で抑制するには、このアフリカの草原以来保持している人間の心性そのものを改造することが必要でしょうね。ターンエーなどはある意味で心性が変化してしまった人間(新世代*)たちの戦争物語としても解読できるような気もしています。

 そうです。お分かりですね。富野氏自身がニュータイプガンダム小野理論をきっちりその経済思想(モドキ)の根底にすえていたのでした。

●AE(アナハイム・エレクトロニックス)社がガンダムを生産していたのは、新世代(ニュータイプ)の顕在化に応えた結果(=消費者主権の具現化)でありまして、同社がまさに富野氏のいう世界企業否宇宙企業として発展したのは、この新世代の消費に期待するというニュータイプガンダム小野理論の明らかな例示ともいえるでしょう。ただしAE社は『逆襲のシャア』をみてもおわかりになるでしょうが、むしろテロ(地球規模テロ)を敢行する資金提供までしているようでして、この種のテロの抑制にはまったくなっておりませんが。

 世界企業による暴力の抑制の決定的な破綻=臨界点に至ることで、すべてを「黒歴史」としてうっちゃり、人間の心性を改造する(普通の人+ニュータイプ → 闘争本能非顕在化の新世代)ことで可能となるターンエーワールドが成立しているように思えるのですがいかがでしょうか?


*普通の人 → ニュータイプ →黒歴史のうっちゃり →ターンエーワールドの新世代(基本穏やか、闘争本能非顕在化。その帰結として地球住人の消費スタイルは第一次世界大戦前後のアメリカ並み、月世界でも明白ではないが何百年と経済水準は定常状態みたいですね)

 黒歴史では、誰にでも売るAE社が、ターンエーでは誰にでも売るパン屋に変転しているのも、面白いように思えます。
 さらにターンエーの世界では定常状態にある経済から脱するためにグエンは「実業家」として戦争を契機にした新産業創出を狙うのだが、それは戦争を引き金とした新世代の覚醒(闘争本能の顕在化)によって可能となっているといえよう。

つまりガンダムワールドは(ニュータイプガンダム小野モデルをベースにすえた)世代の交代モデルとして考えることができる、というわけである。 ま、よくいわれていることではあるだろう。


●『現代思想』での三浦俊彦氏の論説「ニュートンアインシュタインダーウィン化する」からの抜粋。

ダーウィニズムそれ自体が究極理論であるとはどういう意味か。ダーウィニズムの核心をなす自然選択説には、パラメーターが含まれていない。すなわち、マニュアルで代入してやらねばならない数値がない。形質の多様性と淘汰圧という二大メカニズムのもとになるのは、遺伝子の構造と環境の変化であるが、この二つともに、法則が含むパラメーターではなく境界条件とも言うべきものである。''ダーウィニズムは固有のパラメーターを含んでおらず、還元先の物理理論にすべて任せる。すなわち、いかなる物理理論にも適応できる''」。

まさにバーナンキ背理法じゃないの! 奥さん(って誰?

ダーウィニズムが宇宙の仕組みについての「究極理論を放棄した究極理論」であるように、バーナンキ背理法もまた「リフレ的ザモデル=究極理論を放棄した究極のリフレ理論」ともいえる論なわけですな。

可能世界にも適用できるリフレ原理=バーナンキ背理法はすばらしい。


ノーベル経済学賞を受賞したシェリングとオーマンのうち個人的な趣味からシェリングばかり注目いたしましたが、実は(というほどまだ考えてないけど)いま準備中のお仕事にとって重要なのはオーマンも同じ。ルイス的な可能世界実在論と規約(お〜ニューケインジアン)の関係をどんな視野でみていくかで、オーマンの業績が重要。哲学畑オンリーだとこの規約と可能世界実在論の関係って、かの飯田隆先生もつかみきれていなかったんだけども(彼の岩波企画本の論文だったか?そんなことおっしゃってました)以下のサイトは非常にそこんとこクリアにまとめてくれて感謝感激。

http://www.us.kanto-gakuen.ac.jp/indo/kw/ck03b.html

まだ発見したばかりなのでよく読んでないのですが、個人的な関心はルイス的世界をどう経済学にひきつけるかってことですよね。ちなみにかの池田先生の複数均衡なんたらこんたらも雁陀無ワールドでまともに対処する方針ですのでお楽しみに〜。

(追記)これがなぜガンダムだって? それはニュータイプ論のベースになるからです。ララァアムロとシャーっす。そしてこのオーマン的ニュータイプ論の極限に貨幣との関連がルイス的に基礎づけられるのす(見込み はずれるときは十分あり)。あとはニュータイプガンダム小野理論に接合するっす。


●グレッグ・イーガン『順列都市』。いまさらのようにこの名作と評されるものを読む。(以下ネタバレあり)


順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)


これってミクロ的基礎付けのあるマクロ経済学(典型的にはRBC)と、必ずしもそれに執着してないマクロ経済学モデルの対立の話みたいなものです。

ソフトウェア化された人類(これはミクロ的基礎付けのないマクロ経済学モデル,便宜的に実践マクロ経済学とも表現)の世界。これは「パッチワーク」(本書からの表現)的世界でもある。

このソフトウェア化された人類が人口宇宙(オートヴァスという)を作り出す。そこでも知的人口生命が誕生し、その推論がきわめて効率的であり、ミクロの次元からマクロまで首尾一貫した論理を構成する。

やがてこのオートヴァスはソフトウェア化された人類世界に干渉し、それを論理的に否定してしまう。そんなパッチワークはおかしいから(ルーカス批判だ!)

いままでソフトウェア化された人類が用いていたソフトウェア化のルール自体、すなわち人類の世界モデル自体が、このオートヴァスによって否定されてしまう。すなわち“世界”は新しいより効率的なモデルによって説明されてしまう。

人類はもちろん焦る。彼らの「宇宙法則」というか世界自体が消滅してしまうから。世界の説明原理(ミクロ的基礎)がかわることで、世界(マクロ的世界)そのものがかわる。
 人間原理ではなく、オートヴァス(にいる知的生命体の)原理になるから。

「わたしたちは、宇宙の法則をこちらの手にとり戻さなければなりません。オートヴァスに乗り込んで、ランバート人(オートヴァスに生まれた知的生命)にかれらの歴史を説明し、それをうけいれさせるのですーーかれらがすじの通った代案を考え出す前に。ランバート人に、わたしたちがかれらを作ったと納得させるのですーーそれが真実でなくなってしまう前に」

この発言の意味はRBC対実践マクロ経済学の闘いにも比喩できるだろう。真実や歴史を示しても、それは真実や歴史でなくなってしまうかもしれない。物語では人類のソフトウェア社会=順列都市はこのオートヴァス原理の効率性の前で溶解し消滅してしまう。

ソフトウェア化された人類には、このオートヴァス原理に汚染された世界(オートヴァスモデルそのもの)から分離して再出発せざるをえなくなる。

まさに経済学(とは限らないが)の歴史を再現したようなものかもしれない。物語はエピローグで現実世界(ソフトウェア化された世界でもオートヴァス世界でもない)ものに戻って終了する。この現実世界はまぎれもなく人間原理=実践マクロ経済学で説明できる世界なのだが、果たして…。

●ZやZZをみるかぎり、やはりニュータイプが召還するララァたちの「亡霊」はドラゴンボール元気玉やバリヤーの役割もかねているわけだから、別宇宙からの干渉としてとらえるのがいいんじゃないかなあ。亡霊を召還しているときだけ、人間原理じゃなくて亡霊原理が(局所的な)宇宙法則を決定している。だから元気玉やバリヤーみたいなものを発することができるとか…。

こう考えていくとニュータイプみたいなこころの交流というのも、魂とか唯物論前提とかじゃないもっと面妖な側面で理解できるのかも…。

というかあくまでも雁陀無の「経済学」なんで上の話は要するにニュータイプ自体はdeep parameterなんですよ。宇宙法則(宇宙政策?)が人間原理で運行されようが、亡霊原理で運行されようがある程度は安定的なもの。これにニュータイプ小野理論が接続したりするのを見るのは容易でしょうし、オーマン理論も結びついていくわけです。ただカミーユみたいに魂もってかれるケースもあるのでdeep parameterといいきるのもまだ考える余地があるやもしれない。


<旧ブログからの抜粋終り>