姜 克実『石橋湛山』

 「ナショナリズムの超克」−姜先生によればこのテーマこそ石橋湛山が最後に残したメッセージだという。戦前からの小国主義の立場、特に政界の第一線を引退してから強まった脱冷戦的な発想を引き継ぐ石橋の思想であり、今日的な意義がある、我々が立ち向かわなければならない問題だ。この石橋湛山の生涯とその業績の全体像を明晰な文体と分析でまとめあげたこの著作は、いまの日本社会に石橋が残したものを再検討する素材を十分に提供したものである。

 本書ではいままでの著者の石橋湛山研究の成果がふんだんに盛り込まれている。僕も姜先生の著作のほとんどを読んできたので、この一般にも読みやすい石橋の伝記は、いろんな意味で喜ばしい。特に今日でいうデフレ脱却論争ー金本位解禁論争と言われるものーに至るまでの湛山の思想形成とその内容が、僕にはとても参考になった。

 1 湛山の思想形成には日蓮宗的な宗教教義よりも、その初期には「血気の多い素朴な正義感、義侠心、守法護道の信念、また体力・意志力の培養など」が人格形成の面でみられたことの指摘。

 2 田中王堂の哲学からの影響(人生中心のプラグマティズムの哲学、一元的・作用主義的方法論)。特に「一元的・作用主義的方法論」とは、経済の面に適用すればトレードオフ関係を意識したものとなる。本書の説明によれば、「一切の事物現象を発展的、作用的に捉え、一事物の二側面の対立、作用の関係を重視し、有機的、一元的に捉えるのが、王堂の方法論的特徴」であった。王堂的な哲学は、例えば島村抱月的な自然主義理解への批判(破壊だけで処方箋なし)につながる。

 3 初期の湛山の思想の特徴として著者は、「1 「欲望の統整」、自由放任の規制など現実改造、社会改良の思想。2 抽象的「権利論」を避け、社会生活の機能を重視するプラグマティズム」として整理している。

 4 「社会の改造」よりも「心の改造」−思想・言論の自由や女性の普通選挙参加などーで、「資本主義救済、自由主義堅持、議会政治擁護」が、大正期の石橋湛山の初期言論活動を彩る。

 5 石橋のいわゆる「小国主義」の特徴を著者は三点でおさえる。
   1)欲望の「統整」、自由放任主義の克服による国際社会の機能健全の理論
   2)経済理論面での自由貿易、分業利益を媒介にした「人中心」の国内生産力発展論
   3)政治面では、帝国主義批判、植民地放棄、世界門戸開放主義
  である。今日でもこれらの側面は、グローバル化した経済や、内向きな対抗的ナショナリズムが全面に出た議論をするものに立ち向かうときに有効である。
   著者によれば、関東大震災までは「人中心」の思想が、公平な分配論から経済成長(=雇用拡大)重視に視座が転換したことも重要だという示唆は、東日本大震災後のいまの日本を考えるときに重い。またこれが当時のデフレ脱却論争の基礎になったことを考えれば、小国中心主義と、石橋のリフレ主義とがきわめて強く結びついていたことのわかるだろう。著者は「(湛山の)積極財政論は、人間の能動的潜在力の発揮を基本目標とする国内生産力発展の理論であり、小国主義的経済思想の一部と位置付けるべきであろう」とまとめていることは重要である。

 6 石橋のリフレーション理論とは、生産・回復のためのインフレ実現である。その手法として、湛山は1.中央銀行金利引き上げ、2 公開市場操作、3 政府事業を興す という著者によれば「ケインズ経済学流」の考え、特に積極財政的な側面がかなり強調されている。ただしこの本書では、湛山の経済政策のより立ち入った吟味はなく、その点では我々の昭和恐慌研究(石橋の金融政策・為替政策重視への注目)は相互補完姜 克実的な立場になるだろう。

 7 戦時中の自由主義的立場の堅持(ブロック経済統制経済への批判、植民地主義への批判)は健在。さらに戦後の政治活動での成果や、公職追放の顛末、また首相就任前後の政界模様、その早すぎる退陣、また政界を事実上引退したあとの理想主義的な世界平和への尽力と具体的な日中露米との友好関係の構築などが、本書でも詳細である。

 経済論的な面では、石橋湛山の最も大きな成果である金融論的な側面への注目や、またデフレ脱却後での高橋是清財政との関係、戦後でのGHQ史観との関連など、僕と著者では力点や考え方に差異がある。しかしこれだけ平易で明晰な文章で一気に読める湛山の専門家からの高度な評伝はいまのところ他にない。その意味で、湛山の現代的な意義を考察する第一歩として本書は今後重要な里程標になるだろう。

石橋湛山 (人物叢書)

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