田中秀臣「『悪の教典』の経済学」

『電気と工事』1月号に掲載されている原稿を転載します。同誌にはもう一年以上、静かに野心的(?)な論説を掲載しています。最近では徴兵制の経済学や金子哲雄さんの経済学についてを寄稿しています。アイドルの経済学もなぜか隔月で掲載。不思議な雑誌寄稿になっております。なんでも書ける。笑。2月号は核武装の是非を経済学的に考えたものを寄稿してます。ぜひご覧ください。

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悪の教典』の経済学

 「私はこの映画は嫌いです」というAKB48大島優子のブログでの発言で一躍世間でも注目を集めた、映画『悪の経典』(三池崇史監督)。原作は「このミステリーがすごい」などの毎年恒例の各種書評でも軒並み一位をとった貴志祐介の同名の小説だ。アイドル経済学研究者として、まんまと(?)大島優子の発言につられて、まずは原作(文藝春秋社刊)の方を選んだ。1000頁近くある分厚さだが、ほとんど巻を置くこともあまりなく、一気に読めてしまう。確かに感受性が豊かな大島優子が「嫌いだ」といってしまう内容だった。なぜなら『悪の経典』というのは、他人への感情移入や共感する心を著しく欠いた「人間」の話だからだ。いま人間に「」書きをつけたが、それには訳がある。古代ギリシャの昔から、「人間は社会的動物である」といわれてきた。このときの「社会的動物」の基礎は、その社会における多様な人間同士がお互いの心情をわが身のように考えることのできる共感する心に依存しているといえる。この他者への共感する能力を基礎にして、社会もそしてその一部である経済活動も営まれている。つまり人間であるということは、他者と共感し合う能力とかなり分かちがたく結ばれている。しかし『悪の経典』の主人公は、生まれながらこの共感能力を著しく欠いている。ただ彼は自己感情がまったくないわけではない。むしろ本書で描かれた主人公は、実に豊かな感情をもっているように思える。ここらへんは自己感情と他者に対して示す感情が、普通の人間のように、同じ平面上でつながっていない。例えば車や普段利用しているパソコンや携帯などを、あたかも友達のように名前をつけて可愛がることはよくあることだが、この主人公にとって自分以外はすべてただの「モノ」であり、選択のための手段にしかすぎない。例えば人間の生命それ自体も自分の都合や快楽のための手段でしかないのだ。

 『悪の経典』ではそのような先天的な性質をもった主人公が、子供の頃からぬきんでた知的理解(共感能力がなくても論理的な推論などの能力はまったく問題ないようだ)や身体能力を示す。それによって周囲の人間たちを、自分の障害になるや、まるで路上に転がる石ころをどけるように次々と計画的に殺していく様子が描かれている。クライマックスは、彼が担任する高校の一クラスのメンバーを次々に殺戮していく描写だ。一種の精神的なモンスターであり、これでは確かに大島優子が嫌う理由もわからないではない。

 この『悪の経典』で描かれたような人物のことを、「サイコパス」(精神病質者)という。この「サイコパス」は、映画や小説だけではなく、最近ではTVアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』(小説『Fate/zero』などでブレイク中の虚淵玄の脚本)でもまさに中心のテーマであり話題をよんでいる。

 この「サイコパス」とはなんだろうか。経済学者の中島隆信が『刑務所の経済学』(東洋経済新報社)の中で、R.ヘアの『診断名サイコパス』(ハヤカワ文庫)を利用してその特徴を列挙している。

1 口達者で皮相的=自分を効果的に演出できる。
2 自己中心的で傲慢=自分でルールを作り、自分の利益を徹底的に追求できる。
3 良心の呵責や罪悪感の欠如=すべて終わったことで、過去は一切気にしない。加害者になっても自分は被害者だと主張する。
4 共感能力の欠如=自分が満足感を味わうために他人が存在すると考える。
5 ずるく、ごまかしがうまい=平気でうそをつく
等など。

 およそつまり他者は彼の心の中ではいないに等しいため、その行動は自己中心的で、また場当たり的(ただし合理的計算を尽くす可能性が高い)、そして「社会」というものを認識していないので、行動は常に反社会的な方向(犯罪行為、習俗を乱す、ウソをつくなど)にふれる可能性がある。

 例えば、同じ犯罪者でも、この連載でもとりあげたことのある海賊たちや麻薬の売人たちとも違う。例えば海賊(マフィア)は、彼ら以外の社会に対しては反社会的だが、自分たちの組織という部分「社会」に対しては非常に誠実であり、味方を裏切る行為は極めて稀だ。暗黙のルールや独特の規範を構築し、彼ら以外の外部からみれば、どんなに「反社会的」に見えても、彼らの組織の中では「社会」的なのだ。見方を変えれば、自己中心的な合理性で動いていても、海賊たちは自分以外の他者もまた等しく同様の行為者としてみなしているといえる。そのために交渉やルール作りが自分の自己中心的な利益追求の観点からも重要になっているのだろう。

 ところがサイコパスの人は、そのような交渉やルール作りは不要である。一緒にルールを守っているようにみえても、『悪の経典』の主人公がしばしば行っているように、共同行為をしているかのように“擬態”しているだけなのだ。あくまでも世界において尊重される人格は彼ひとりしかいない。あとの存在物は、路傍の石=手段でしかない。こういう言い方もできるだろう。学校や職場などでたくさんの人たちと生活していても、彼は孤島のロビンソンクルーソーとなんら変わらない。普通の人だとそれを「孤独」とよぶかもしれないが、サイコパスの人にとってはそのような感情は存在しない。
 ただここまで書いてきて、サイコパスの人の特徴が、どうしてもうまく経済学が想定する「経済人」(上に書いた海賊などの経済合理性からくる行動パターンをもつ仮想人格)と切り離すことができない。むしろ、サイコパスは経済学が想定する「経済人」の一種の理想的??な形態にも思えてしまう。

 ところでサイコパスの人が犯罪を行い、そして刑務所や少年院などに収監されたとしよう。中島の『刑務所の経済学』では、受刑者や少年院にいる人たちに、被害者の痛みなどを理解させるような「反省」プログラムは、サイコパスの定義からして役立たないと指摘している。と同時に、サイコパス的な特徴が活かせる社会的な情報を与えるほうが、社会にとっても望ましいと提起していて興味深い。サイコパスの人が反社会的な行動に走らずに、その自己利益を追求できる職業に向かわせるなどである。例えば、医師、精神科医、警察官、軍人、作家、芸術家、芸人などが一例である。そうそう、忘れてはならない肝心な職業もある。もちろん経済学者もだ

悪の教典〈上〉 (文春文庫)

悪の教典〈上〉 (文春文庫)

刑務所の経済学

刑務所の経済学