『爆裂!アナーキー日本映画史1980-2011』

 昨日、石原愼太郎dis夜会でお話しを伺った高鳥都さんが寄稿していると紹介があったので読破。あれれ、多根清史さんも寄稿している(笑)。

 高鳥さんが、僕もここで誉めてる『XX エクスクロス 魔境伝説』を絶賛されているのは嬉しかったですねw

 しかしこの一冊は手元においておくと便利ですね。こんなに変な映画が多かったなんてね。かなり見ているけど、自分の人生にほとんど影響を与えてないことにいま気が付きました(笑)。

 わりとその事実を確認してちょっと驚いてます。こんなに映画が好きなのに。映画ってなんなんでしょうかね? あ、ただの時間つぶしだ。

 昨日の石原愼太郎disる夜会の動画はこちら

映画秘宝EX爆裂! アナーキー日本映画史1980~2011 (洋泉社MOOK)

映画秘宝EX爆裂! アナーキー日本映画史1980~2011 (洋泉社MOOK)

福田和也『病気と日本文学』

 編集の雨宮郁江さんからいち早く頂戴しました。ありがとうございます。慶応大学の講義をもとにした独特の日本文学史(巻末には語りおろしも加える)である。講義口調のせいもあるのか、高度できっちりした内容と、読者(聴講生)に思考の素材を生のままごろっと与える部分が混在していて、読んでいてとても刺激的だ。病気から読み解く日本文学というテーマなのだが、確かに正岡子規夏目漱石北條民雄、そして武田泰淳らの生涯やまた著作における「病気」と彼らの文学が語られているのだが、なんだか違うもの(不穏なもの)が抽出されていく過程を読んだ気がする。

 「社会的なこと、世俗的なことを全部投げ捨ててしまった人間が、ただそこにいて、見ているという姿勢。そこから近代西洋的な自我に基づくリアリティとは別の、私小説的な、あるいは日本的なリアリティというものが、ある種の力強さを持って露呈している。病気によって現実を相対化する位置にいってしまったということと、このリアリティは深く関わっているんだと思います」(87頁)。

 この日本的なリアリティとは何か? 北條民雄の『いのちの初夜』を扱った章ですが、このように福田氏は書いています。

「(『いのちの初夜』では)精神は尊いとか、魂は不滅だという観念が、ここでも否定されている。子規が作ったリアリズムの流れと、その帰結としての漱石的な心身観、身体も心もあてにならないこと。その極限に置かれたときに、じゃあ本当にかけがいのないもの、人間にとって本質的なものとは何なのか。そこから導き出されるのが、生命、命というものです」(127-8頁、カッコ内は田中が補う)。

 ここで福田氏は近代の日本文学を支えているイデオロギーの到達点(それは北村透谷から始まっているので始原から刻印されているのですが)を明らかにします。

 そして後半の戦後の日本文学を扱う冒頭で、この生命イデオロギーの流れをぶったぎるような椎名麟三の『自由の彼方で』の意義をまず語ります。

 「正岡子規から北條民雄までの作品は、基本的には地続きになっています。病気、身体、精神を物質として見なしたときに、生命というものが現れてくる。一方、椎名麟三は真逆なんですね。身体もダメ、精神もダメ、そこで生命ではなくてむしろ死、死体という感覚が出てくる。この断絶は何か」(161頁)。

 大変刺激的な転調ですね。福田氏が別に書いたことではないですが、いままでの生命イデオロギーは、生命を通じて、自分と他者が結ばれるような構造になっていると思います。図式化すると以下ですね。

 福田氏も似たようなことを書いてますが「生命」というのは小説家だけでなくても政治家、宗教家、誰でもいえるんですよね。「生命」が他者の「動員」を可能にします。「生命」を通して「自分」と「他者」が結びつく。これは森有正が「人格関係」と名付けたものです。「生命」に「神」や「友愛」などを代入しても同じですね。

 ところが、椎名の作品はそういう「人格関係」を破壊している感じがします。「感じ」というのは僕がまだあまり椎名の作品を、福田氏の解釈を通して理解していないからですが。

 この自分と他者とが「生命」を通じて結び合うというような生命イデオロギーの終焉は、川端康成の晩年の作品にさらに色濃く表れていると、福田氏の本を読んで思いました。

 福田氏は川端の最後の作品『たんぽぽ』や、ノーベル賞受賞講演での「佛界易入 魔界難入」という言葉に注目しています。福田氏の紹介する、川端の作品を読むと、おそらく上の三項図式的なものは、インチキ(仮構)にしか見えない。そんなインチキに安住している人間の社会的な営み自体が胡散臭いもの、まさに「危ういもの」に思えます。

「病気という概念自体、人間が作りだしたものですし、川端という作家にはそういうものが通用しないので、講義としてはちょっとまとまりに欠けてしまいましたけれども、近代作家の中で一番恐ろしい作家だと私は思いますし、正気と思われている世界の方が危うい、川端の手にかかると人間の主体性や生死の境界さえ掻き消えてしまうということは、おわかりいただけたかと思います」(209頁)。

 ぼくの読みが正しい方向なのかはわからないが、かなり刺激的だ。また講義ゆえに問いの形のままで答えのないものも多い。それはまったく無問題だ。いい講義とはそういうものだと思う。

 

猪瀬直樹さんの公式ページ刷新

猪瀬直樹さんのホームページが大幅にリニューアル。読みやすくなってる。
http://www.inose.gr.jp/

表題の話題に関連して、10年前にご一緒にメールマガジンをやってたころのバックナンバーから、僕がかかわったものをに以下にご紹介。いまでも通用するのは喜んでいいのかどうか。

 ただしバックナンバーは創刊から1年ほどは保存してない。書籍になったりして吸収されているため。
『不況レジーム』を打破せよ―政府日銀の政策協調を実現するために―」(田中秀臣)

書評:宮崎哲弥著『憂国の方程式 日本、愛さぬでもなし』

構造改革不良債権問題、マクロ政策をめぐって(岩田規久男先生、岡田靖さん、小林慶一郎氏、野口旭さん、僕の珍しい座談会)第一回 第二回 第三回 第四回

猪瀬直樹著作集『日本の近代』を読む――後輩からの視点」(猪瀬直樹さん、宮崎哲弥さん、僕、内藤陽介さんとの対談。これはいま読んでも知的刺激に満ちている)第一回 第二回 第三回 第四回

以下、面白そうなところ引用

○田中● 猪瀬さん、意識してかどうか知らないけど、僕みたいな経済学的な
     バイアスから見ちゃうと、市場経済の成立とその発展という非常に
統一した視点を感じる。しかも構造改革って何かというと、たぶん三島由紀夫
が、結局不本意なかたちで終わっちゃっているんだけど、国と市場経済のあり
方のからくりを解く作業でもある。それをいかに暴いて、ある意味、祝祭空間
みたいなものをね、もう一回いまの世の中に呼び起こすような改革なんでしょ
う、おそらく。

○宮崎● ええっ、そ、そうなんですか(笑)。祝祭空間を招来するための改
     革なの?

○田中● だって、そうじゃないですか。空虚な中心は官僚に利用されてしま
     い、その官僚組織の歪みを正すのが構造改革ですから………。

○宮崎● ああ、そういうことか。知らなかった。

○田中● 結局、象徴的なもの自体を改革しなきゃいけないという問題意識が
     あるのではないかと思います。つまり、空虚な中心だったんだけど、
本当にもう中心でさえあることが困難になりつつあると猪瀬さんは書かれてい
ると思う。

○宮崎● 『ミカドの肖像』にロラン・バルトの『表徴の帝国』の話が出てき
     ますが、宮城を空虚な中心だといったのはバルトですよね。空虚な
中心であるがゆえにゼロ記号として作動し得る。それ自体は何ら意味的な価値
的な負性を帯びていないがゆえに、あらゆるものに意味を付与し、あらゆるも
のの価値を秤定できる「一般貨幣」システム。価値体系の要としての宮城、天
皇を中心とした価値秩序システムのことですね。このシステムを活用してプリ
ンスホテルのブランド神話が構成されたわけでしょ。

○田中● そうそう。

○宮崎● そうすると、田中さんのお考えだと、もはや現天皇制はいまやゼロ
     記号としても有効ではなくなったということですか?

○田中● ゼロ記号として、何か原初的な力で発動していくとか、もう一回そ
     の力を与えるという考え方は、僕は、三島由紀夫の失敗の道だと思
うんです。もし天皇家がいたるところにゼロ記号として流布しているんだとす
れば、飽和しているかどうかわかりません。むしろ天皇家はゼロ記号としては
非飽和であるようにも思える。

○宮崎● 私はもう飽和してると思いますけどねぇ。そうすると、たとえば構
     造改革によって再び市場を賦活するとしても、どうもよくわからな
いのは、そういう祝祭空間を現出させる力というのは、市場システムに内在
しているものなの? それとも超越的な外部から降臨するものなの?

○田中● うーん……。僕は空虚な中心を再構成するという改革には困難を強
     く感じてしまいます

○宮崎● いや、これは大切な点でね。「日本近代の来歴と消息」の探求が、
     猪瀬氏の仕事のメインストリームだとすれば、いま田中さんが指摘
されたことが、近代の帰趨を指し示しているような気がするんだ。

○田中● そうですねえ。ちょっと話をずらすと三島由紀夫の『文化防衛論』、
     これもなかなかおもしろいんですよ、橋川文三に批判されてますけ
ど。その批判も猪瀬さんの『ペルソナ』に書かれていて、三島はナショナリズ
ムというのを全体性と再帰性と主体性と三つの観点でとらえているんです。全
体性というのは、さっきの延長で言えば、いたるところにゼロ記号としての天
皇がいるという感じなんです。身体レベル、感情レベルでね。再帰性というの
は、ともかく繰り返す。これは複製的なニュアンスなんですね。近代以前だと
謡曲の『蝉丸』とか、『万葉集』であるとか『古事記』であるとか、それらの
写本もかぎられてますよね。ごく一部の範囲にしか伝わらないし、口承文学と
いってもごく小さいサークルのなかでしか流布しない。それが近代以降になる
と、再帰性は、印刷技術の発展を受け入れることによって爆発的に確保されて
いく。

 三島由紀夫の失敗は、残された主体性だと思うんですね。もう一度、中心と
周縁の関係をリシャッフルするような形で、つまり、コスモロジカルなものが
またバァーッと出てきて、中心と周縁というふうに民衆の欲望みたいなものを
抑えていたこの象徴的なものの枠組みを壊しちゃう。おそらく三島由紀夫は、
そういった方向を目指したように思えます。

 しかし実際には、現在はあまりにも象徴界が量的に大量なんで、三島由紀夫
の力でもってしても、祝祭空間、つまり、コスモロジカルなものをボーンと持っ
てきて象徴的な世界を流していくような形には、たぶんならないんでしょうね。
結局彼の市ケ谷自衛隊の演説も、ヘリコプターの爆音とか自衛隊員の野次で
消されてしまった。三島由紀夫の失敗の意味は重要な示唆に富むと思います。
やはり、あまりにもコスモロジカルなもの、民衆の欲望というものに期待をか
けたような改革は制約があるんじゃないかなと、僕は思うんです。

○宮崎● その点については、『唱歌誕生』と『黒船の世紀』の二作が参考に
     なる。つまり、「故郷」とか「戦争」といった民衆の表象がいかに
して成立したか、ということが描かれているわけですね。田中さんがつとに批
判されている「構造改革」像もそうだけど、そういうものはうまくタイミング
を計れば、かなり意図的に「作り込める」可能性があるんじゃないの?

○田中● それは『欲望のメディア』で触れられていますが、戦争が終わって
     天皇終戦玉音放送を流すわけですね。初めてそこで多くの人が
天皇の生の声を聞いたわけです。言い方を変えれば、戦前は実物の天皇を見せ
ないことで天皇制が本当に機能していた。

○宮崎● うんうん。

○田中● 戦後というのは、玉音放送で話して、生の天皇が出てきて民衆の共
     同体的な感情に訴えたかというと、そうじゃなくて、逆に天皇の声
自身が象徴的に商品化されていく。それがこの『欲望のメディア』のベースに
ある考え方じゃないかなと思うんですよ。だから『唱歌誕生』とか『黒船の世
紀』のベースにも、僕は――僕の読みですけどね――、戦後的な象徴としての
天皇じゃなくて、コスモロジカルな世界と象徴的な世界というこの分け方での、
象徴的な世界としての天皇論が一貫して流れてる。故郷というのもじつは近代
以降に象徴化された故郷でしかないと思いますよ。

○宮崎● その通りですよ。だけど三島はまさに象徴としての天皇依代とし
     て、実体的な力──祝祭空間を現出させる──を呼び出そうとした
んじゃないの。同じように小泉純一郎もほんの束の間、依代になったことがあっ
た。だからこそ90%という空前の支持率があったわけでしょ。私達は、小泉に
降りた「構造改革」の神に一瞬、目を焼かれたんだよ。その「改革」は経済学
的にみれば矛盾だらけ、間違いだらけだったかもしれないけど、「ユニオン・
サクレ」が振起したことだけは間違いない。

で、僕は創刊の2001年4月からの編集のお手伝いをこの02年の7月で終わり。あとはたまに投稿することはあったけど。

「ステルス型危機へのプレリュードか、再生への扉が開くのか?」
「世代対立の経済学:試論」

ちなみに01年の創刊からバックナンバーに掲載されたないものは以下の書籍にだいたいは吸収されている。ほとんどの本の内容がいまでも通用するには素朴に驚く。いったい日本のこの停滞はなんなんだろうか?

一気にわかる!空港の内幕―日本病のカルテ

一気にわかる!空港の内幕―日本病のカルテ

日本病のカルテ 一気にわかる!住宅金融公庫廃止論

日本病のカルテ 一気にわかる!住宅金融公庫廃止論

日本病のカルテ 一気にわかる!デフレ危機

日本病のカルテ 一気にわかる!デフレ危機

一気にわかる!特殊法人民営化―日本病のカルテ

一気にわかる!特殊法人民営化―日本病のカルテ

ロナルド・ドーア『日本型資本主義と市場主義の衝突』

 旧ワイアードにいまもログが残ってるけどいつ消えるかわからないのでこちらでも保存。

ーー

 「日本型」の資本主義や雇用システムというものはあるのか? 答えはイエスである。各国によって制度や規範が異なればそれに応じて「××型」と形容してもなにも不可解なことはない。経済の与件として考えるか、あるいは経済主体のインセンティヴ構造に関連させて、より「内在的」に考えるかで、この「××型」への対峙の仕方が異なるだけだろう。

 さらに一般に「××型」といわれる経済システムであっても、例えば「日本的雇用システム」の特徴といわれている「終身雇用」、「年功序列」などは、それぞれが日本独自のもの(すなわち過度に日本の制度的仕組に依存して独自の説明が必要である)かは、疑問である。

 例えば、長期の雇用慣行は、日本と同様に欧米の大企業にもみることができる(ジェームズ・C. コリンズ他著『ビジョナリーカンパニー』日経BP出版センターなどを参照されたい)、また年功序列も人的資本仮説、効率賃金仮説などと、他の諸国の雇用システムを観察するときに適用される見解によって、その制度の特徴を記述することが可能である。要するに「日本型」と形容される経済システムの相違はあるが、その相違がよって立つ経済原理には奇異なものはない、ということである。

 特にドーアの主張である「日本型資本主義」が効率的で長期的に安定的なシステムである、という評価を考える際には、いま書いたような一見すると些細な点に留意することが大切である。私もドーアと同様に、「日本型資本主義」はかなりうまく「効率と平等のトレードオフ」に対応した仕組みであると思う。

 もちろんこのシステムに問題がないわけではない。構造的な問題ならおそらくいくらでも列挙することができるだろう。しかし、どの構造的問題も「日本型資本主義」にとっては致命的とはいえない、と私は理解している。おそらくこのような断言は多くの批判を招くだろう。

 ここでドーアのいう「日本型資本主義」の特徴を整理しておきたい。長期的な契約関係を重視する企業構造(日本型雇用システムや系列間・取引先との関係など)、競争者間の協調(競合する企業同士さえゼロサムゲーム的に行動するのではない。また談合の経済合理性への言及など)、産業政策に典型的な政府介入のあり方といった諸特徴が、相互に補完関係にあり、このシステム内に属する経済主体の動機付けに対して整合性をもっている、というものである。

 私は産業政策が戦後の日本経済の成長にどれだけ寄与したのか疑問に感じている。この点はワインシュタインら(Beason, Richard & Weinstein, David E, 1996."Growth, Economies of Scale, and Targeting in Japan (1955-1990)," The Review of Economics and Statistics, vol. 78(2), pages 286-95)やマイケル・E・ポーター&竹内弘高(『日本の競争戦略』ダイヤモンド社)らの実証研究が参照されるべきだろう。

 私も近々、産業政策の実証に関する展望を公表する予定である。むしろこれらの実証研究では、ドーアの指摘するような生産性への寄与や研究開発効果などはほとんど検出されず、反対に産業政策の名の下で行われて「効果あった」のは、衰退産業の保護などの生産性に悪影響をもたらす政策ばかりであったということである。

 ただし政府介入一般には、マクロ経済政策や、いわゆる「セーフティネット」と表現されている社会保障制度や教育・防衛や各種インフラ整備、そして適切な行政の直接介入などがあるだろうし、そこまでを否定する必要はあたりまえだが微塵もない。また談合やそのほかの排他的な商慣行などは一般的に改善されるべきだろう。また産業政策的政府介入や談合が廃止されたからといって、ドーアのあげた「日本型資本主義」がその補完的システムゆえに瓦解したり本質的な変容をとげるとも思えない。

 ドーアも批判の対象とし、私もその批判に同調しているが、今日、日本で「構造改革」を主張する論者たちの多くは、政府の適切な介入のあり方を(啓蒙の次元ではあえて無視ないし徹底的に批判し)、政府に依存する主張をその大小に関係なく、「社会主義的」と非難するのが論戦の流儀のようである。

 ドーアも(その立場に基本的に賛成している私も)、このような構造改革を声高に主張している論者たちの効率第一主義に対して、その「効率性という回転する歯車にわずかばかりの砂をかける」ことを目指しているのだ。特に(大企業を中心とする)いわゆる「日本型雇用システム」や長期的な取引関係を重視する日本の経済システムが、経済のグローバル化や金融化によって適応不全に陥ったとは考えられない(この点については、野口旭・田中秀臣構造改革論の誤解』東洋経済新報社田中秀臣『日本型サラリーマンは復活する』NHKブックスなどを参照)。

 本書では、また長期的なコミットメントがもたらす「信頼」や「公正」の観点が強調されていて、株主や経営者たちの短期的な利潤獲得行動に警鐘を鳴らしている。この点はたとえば最近のJR西日本の事故や、ライブドアの結局は短期的利益のみあげただけの敵対的買収事件などの事例をみれば、この「信頼」「公正」の重要性と、他方で短期的な貪欲の問題がさらに明らかになるだろう。ドーアの近著『働くということ』(中央公論新社)も、この問題を「労働の公正」の見地からとらえたものである。

 最後に、ドーアは日本の経済システムが苦境に陥っているのは、主に不況の持続のためである、と正確に診断している。彼はそのような言葉は使わないが、日本の潜在的成長力はこの停滞にあっても依然として高い水準になると評価しているのだろう。

日本型資本主義と市場主義の衝突―日・独対アングロサクソン

日本型資本主義と市場主義の衝突―日・独対アングロサクソン