「日本の核武装」の経済学メモ書き

 最近は本当にネットも殺伐としているけど、なんでもテレビで核武装のアンケートの話もあったとか? 正直、やれやれ、というのが感想だ。

ただ前から興味はあったので一度、この問題を経済学の視点から考えてみたい。まあ、断定的な結論よりもとりあえずいろんな文献読んでのメモ書き、その第一弾。

 最初は、まず服部彰氏のこの論説「核兵器開発の経済的帰結」
 http://www.asiawide.or.jp/eps/symposium/s96/3-7.htm

 服部氏の論説は96年のものであり、現在とは若干、国際政治情勢が異なるとはいえ、経済学的な部分はほぼいまでも有効な議論だろう。

 論説の中核は後半部分だ。なぜ核兵器保有するのかのインセンティブ。

「経済学の需要と供給という概念を使えばこの問題を解決できる。端的にいって、冷戦終結後の世界においては、需要面で、核を保有する政治的あるいは経済的価値が上昇し、供給面においては、技術的あるいは政治的理由により核兵器獲得のコストが低下したといえる」。

 仮に日本が核保有をしようとすると、例の不出来な国際条約(だって抜け道いっぱい)である核不拡散条約にどう対処するかである。正々堂々??と脱退していったのは、いまのところ北朝鮮のみである。核武装論者がどう考えているかしらないが、日本も北朝鮮並みになりますか? 

 服部氏の論説ではこの堂々路線以外にふたつの方策を提示している。どれもかなり戦略的な選択肢だ。

核兵器の開発に関しては、2つのやり方を区別しなければならない。1つは米国型であり、秘密に開発し、実験して、保有を宣言する方法である。もう1つはイスラエル型であり、秘密に開発し、実験は行わないで、あとは不透明な状況を維持する方法である。つまり、世間の目が厳しいときには後者の方法で戦略的補完関係に対処できる。」

 ここでいう「戦略的補完」については、浜田宏一先生の論説「日本の平和憲法の経済的帰結」から引用

冷戦の状態での各国の戦略的な依存関係と、冷戦が終わった後での各国の戦略的な依存関係は、性質を異にしてます。マーシャル・プランの話が出ましたが、NATO北大西洋条約機構では、アメリカとヨーロッパ諸国が協同してソ連の脅威にあたるということで、お互いに軍備に支出することが、一種の正の公共財でした。つまり、安全のためにみんなが協力しあうという構造であったわけです。そういう構造の下では、当然ながらただ乗りの問題があるわけです。
大きな国は、自分にとっても安全が重要だからたくさん支出するインセンティブがあります。小さな国は、誰かが守ってくれるのだということで、支出しないインセンティブが働きます。これは有名なオルソンという人の共同行動の理論、(theory of collective action)です。一般に普通の公共経済学の応用としてそれが出てくるわけです。ダグラス・ノースという有名な経済史家の例を用いますと、領主が領地を見回っていて土地の所有者と一緒に安全を守るというような時も、大きく領地を持っている領主は、全体を守るために自分のスケールに比例した以上の努力をするところがあるのでただ乗りの問題が生じ、共同安全保障の場合にはただ乗りが生じやすいということになります。
 ところが最近の問題というのは、悪の帝国(Evil Empire)がなくなってしまったわけです。そうしますと、日本と韓国と台湾と中国とマレーシア間の問題というのは、共同の敵に備えていかに相手国に軍事費を使わせるかというただ乗りの議論ではなくて、もしかして隣の国が侵略してきたときどう守るかという問題となります。そういう意味では戦略関係が冷戦中の公共財の議論とは違ってきます。冷戦中は相手が使うときは自分はさぼっていいという公共財の議論だったのですけれども、そうではなくて、相手が支出したらそれを守るために一層支出しなくてはいけないということになります。そういう形での軍拡競争というのができる余地があります。それはゲーム理論で、初めの冷戦中のケースを戦略的代替関係、後のケースを戦略的補完関係といいます。

戦略的補完関係のある場合で、国際世論の眼が厳しいときは、2のイスラエル型を選ぶのかもしれない(というか開発はしないほうがいいのだが)。

服部論説には核兵器開発やその後の維持、またはより重要だが解体コストが計算されている。特に最後のものは重要だ。簡単にいうと、核兵器開発のコストは過大であり、まったく一国の平和の配当に見合わない、というのが服部論説の示す方向だ。

現在大きな問題になっているのは、核兵器解体に伴う費用である。核兵器解体に伴う直接の費用は現在150億ドルと見積もられている。さらに核兵器解体に伴う費用には、環境回復と廃棄物処理費用がある。これだけで、2、000億ドルから5、000億ドルかかるといわれている。これには、汚染が除去されない場合などに地域住民にかかる費用を計算に入れていない。こうした汚染地区が元に戻るには数千年かかる場合がある。このことはとくに長期に汚染されている場合についていえる。
平和の配当との関連でいえば、少々核兵器が解体処理されても社会には金銭的な面でたいした利益は生じない。平和の配当という場合、通常軍事支出が削減されるとその分他の分野に何等かの形で転用できることを意味している。核兵器の場合、運搬システムの生産は別にして、核弾頭および核爆弾の場合、解体処理費用が巨額になることを忘れてはならない。米国の核兵器に対する支出が年間300億ドルとし、核兵器の解体に伴う費用が5、000億ドルとすると、核軍縮が行われたとしても、核兵器支出相当額が米国において他の分野に割り当てられ果実を生みだすまで、少なくとも20年、さらにはもっと時間がかかるかもしれないのである。つまり、核兵器は、金銭的にみれば、たとえそれが解体・処理されても直接的な平和の配当を生み出さないのである。言い換えれば、経済発展という視点でみれば、まったくの浪費であったことになる。もちろんこのような浪費の負担はグローバルな問題であり、地球的な規模での負の遺産ともいえるのものである。

実は、この指摘はポール・ポーストも『戦争の経済学』の中で同様のものを行っている。

核兵器は通常兵器よりも(限界費用でみた)コスト効率は確かにいい。だが初期投資、関連する維持経費(防空システムなどのメンテ、開発など)、処分などを勘案すると非常に高価な事業となり、一国の防衛予算の大部分を奪いとってしまう。北朝鮮のように元から国家予算のかなりの部分を軍事費に利用していて、いわゆる「ソフト化された予算制約」に直面している国家ならば核兵器保有にすすむ経済的なインセンティブが強くありそうだ。

核武装の経済学的考察については、またいずれエントリーを書くつもり。

飯田香織さんのブログ&スティグリッツとクルーグマン両氏のインタビュー海外向けバージョン

 NHK Biz+は昨日はバーナンキジャクソンホールでの講演の中継だったんですね。余裕で寝てました ハハ。閑話休題

 飯田香織さんのブログはあんなに忙しそうなのになんでこんなにまめなんだろうかというほどいろいろ書かれてますね。これだけ毎日、生の経済ニュースの生まれる場にいるのはうらやましいですね。話すネタにこまらない 笑。
 http://www.nhk.or.jp/bizplus-blog/100/

 それと教えていただいたのですが、以下にこの前のクルーグマンとスティグリッツへのインタビューの海外向けバージョンがあります。

http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/movie/feature201208201114.html

http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/movie/feature201208211112.html

 また日本版とは違う味わいですね。

「尊厳死の法制化を認めない市民の会」のホームページと小田嶋隆さんのコラム

 尊厳死法制化を認めない市民の会のホームページができてます。
 http://mitomenai.org/

 ぜひ会の趣旨にご理解いただき、集会・研究会そしてカンパなどよろしくお願いいたします。
 
 発足集会でお話を聞いた小田嶋隆さんのエッセイから。
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120830/236185/?P=4

しかしながら、私には、この法案が、「死」を効率化しようとする動きであるように思われるのだ。

 あるいは、効率化しようとしているのは、「死」ではなくて単に医療費なのだろうか。
 でなければ、真の狙いは臓器ビジネスの産業化なのか?

 考え過ぎかもしれない。
 が、こと、生死に関しては、われわれは考え過ぎなければならない。ここのポイントで思考を放棄することは、自身の死と生を他人に委ねることを意味している。

現代思想2012年6月号 特集=尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル

現代思想2012年6月号 特集=尊厳死は誰のものか 終末期医療のリアル