山形浩生インタビュー「10年ぶりに宣言! ジェネラリスト的な教養をふたたび」

 荻上チキさんのtwitterで知りました。そうか、最初のもandoさんの担当だったんだ。来年は僕も書きますよw

 http://www.sbbit.jp/article/13791/

山形氏■ジェネラリストがいいのか、スペシャリストがいいのか――昔からの難問ですよね。ぼくは圧倒的にジェネラリスト派なんですが、ずいぶん前から、スペシャリスト偏重の風潮はあるなと感じています。でも、スペシャリストはスペシャリストだけでは機能しないというか、専門家をどう配置するか決めなくてはいけない。市場原理でうまい具合に陣立てされていくかと言えば、そうはなっていかないから、どうしたってジェネラリストは必要なんですよ。鳥瞰する人がね。

 ペンキ職人とスーパーコンピューターを操るような人をネットでつなげてもたぶん、合意には達しないと思うんですね。むしろ中途半端にペンキについて知っていて、中途半端にスパコンに関しても知っている人がいなくちゃだめ。とはいえ、ある程度までくるとジェネラリストの仕事は終わります。最近のリフレをめぐる議論でも、あるいはフリーソフトの話でも、その発想自体がバカにされている時期は、ジェネラリストで素人のぼくがしゃしゃり出る余地はある。でもその議論がある程度の市民権を得て、細かい専門的な話になると、山形のような素人ジェネラリストの出番はないし、参考文献にすら名前も出してもらえない。それは寂しいけれど、でもそこに到達するまでは、その分野を知らないからこそ大胆な意見も言えるし、素人の戯れ言としてでも聞いてもらえて、そうした発想の普及に貢献するってのはあるんじゃないかな。

 まあ、僕も本職は日本経済思想史なわけで、その関心の延長でマクロ経済関係の時論をやっていますが、気分的にはジェネラリストに近いです。でもリフレ論争でもまだまだジェネラリストの役割は終わりそうもありませんね。

水無田気流『無頼化する女たち』

 水無田さんからいただきました。意外ですw どうもありがとうございます。何気に今度の就職本の中にも水無田さんのデフレ世代論を援用して論じたところがありました。この本には最近、関心がよりアップしてきた「デフレカルチャー」に関連のあるヤンキー文化拡散論が後半の目玉になっていて読ませます。

 ゼロ年代後半の勝間和代(とその事実上の補完たる香山リカ氏)ブームに典型的なサバイバルエリートと、他方でネオヤンキーの女子という、ニッポン女子の無頼化の二極化が示唆されています。こういうネオヤンキーとサバイバルエリートは、冗談みたいですが、宇野常寛さんのサヴァイブ/バトルロワイヤル系と関係性モデルというふたつのゼロ年代の新しい想像力の動きと照応しているんですねえ。同時多発文化解釈現象でしょうか? 笑

 個人的にはヤンキー文化拡散論のネガ=コミュニテイの煉獄 とポジ=コミュニテイに包まれる・包む快楽 をデフレカルチャーの問題域の中でみていきたいですね。

無頼化する女たち (新書y)

無頼化する女たち (新書y)

海老原嗣生『学歴の耐えられない軽さ』

 海老原さんから頂きました。お礼遅れてすみませんでした。この本の特に後半の玄田有史批判からが抜群に切れ味がいいです。

 ところで僕は今度の就職本で書きましたが不況であっても中小企業は売り手市場のままです。もちろんブラック企業のようなものが採用を活発化させていることもありますし、また基本的に不況ですので、採用が厳しい現実はあります。だが学生がそれをフォローする保護者、教員、職員とともに企業をサーチすれば、(繰り返しますが不況制約はガチンコ効いてるのであくまでもその制約の中での話しですが)しないよりははるかにいい結果がでるのではないでしょうか? いや、それはしないよりは絶対にいいと思う。

本書の提言でこの点に関連して海老原さんは次のように書いている。

「つまり、就職にあえぐ学生がいたら以下の指導をすることが大切なのだ。
・えり好みせず、中小企業でもいいから、まずは、ちゃんと正社員となること
・どうしても就職できずフリーターになった場合も、その道でがんばり、サブやチーフとなって25歳までの好況期に「そこそこ」企業で正社員となること
・さらに4〜5年後、20台後半の好況期にもう一度ステップアップを目指すこと
 略 同時に、新卒採用をしてもまったく学生が集まらない中小無名企業に手を差し伸べることが、行政のなすべきことだと痛切に思っている」(141-2)

 僕はまず「えり好み」はすべきだと思っています。それが最初に書いた周辺の大人たちのフォローの必要性にもつながります。もちろんこれは相当に大変なことです。それと「好況期」がくればいいのですが、そのためにはもちろん本書の範囲を超えてますが政府の対策が決定的に重要なのです。就職が困難な時期が長期化することはいままでの日本の経験と、そして現状での政府の対応から十分予測できるので、海老原さんの期待はかなり楽観的に思えてしまいます。とはいえ、中小企業に就職活動の重心を移してそこで会社のことを徹底的に調べようとする姿勢(最初にいいますが入社しないで知ることのできる会社の情報はたかがしれているとはいえやはり貴重なのです事前に企業研究をすることは)、正社員を目指す姿勢はいまの不況の中で(不況対策以外に)とることのできるもっとも望ましい選択肢でしょう(少なくとも僕の本が想定する読者=非就職コア層にとっては)

 海老原さんは就職指導にみる「就社よりも就職」重視の考えを批判していますが、僕もこれには同意します。まさに『13歳のハローワーク」シンドローム(これについてはなんと『最後の「冬ソナ」論』で批判してます! 笑)=自分探しシンドロームであり、本人の就活にとって百害あって一利なしですね。

 海老原さんの本と僕の本は結構重なる問題提起も多くこれからも参考にしたいと思います。ただマクロ経済的な側面への評価(不況が日本経済に冷たい風だが芽を吹かせる、というまさに清算主義的な考え方にはまったく賛成できませんが。というよりただの誤りだと思っています)。ありがとうございます。

学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識

学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識

中川淳一郎「今ウェブは退化中ですが、何か?』

 中川さんから頂きました。ありがとうございます。アルファブロガーは人気ラーメン店で行列する人と同じ=暇人仮説を『不謹慎な経済学』で書いたことのある僕には、中川さんの前著『ウェブはバカと暇人のもの』には賛同するところが多かったですね。今回の本もその基本的な主張は賛成します。本書はウェブよりもリアルの学習や付き合いの方が本人の幸せや利益にも結びつくということを最後のメッセージに持ってきていますが、僕もそう思っています。他方でネットの効用もあるでしょうが、それは僕にはきわめて限定的なものに思えます。とはいえこの感想もネットで書いているわけですがw。

 どうでもいいことですが、本書は縦書きの本としては日本で最も連続するwを書いた本じゃないでしょうかw(193ページ参考)。

 さて本書のネットの限定的な評価を集約しているのが次の中川さんの発言でしょう。これの心のどこかに自分もあるのは否定できないですね。基本的に議論よりもネットでは情報収集や情報交換が効率がいいように思っています。

「ネットの上の匿名のネガティブコメントを鵜呑みにしないでください。
悪くかかれても、そこに妥当性がなければ華麗にスルーしちゃってください
なぜなら、書いている人たちは、別に深い思慮があって書いているわけではないから
単なる暇つぶしか、自分の頭をよく見せたいだけですからこっちが本気になる必要はないですよ
なぜなら、そこには「公」の概念が希薄だし、発言者には「責任」が伴っていないから
発言に責任を伴わぬ匿名人間との言論バトルは、完全なハンディキャップマッチ
そんな不利な勝負の土俵に上がる必要はない」(51-2)

 ネットを中心に情報をとる人は批判している本をもちろん読みもしないで批判する傾向が強いことが書かれています。せいぜい立ち読みかあるいは実物を手にすることもなく、本の題名、著者の履歴や属性、あるいは目次やほんのささやかな断片などで、あとは感情でふくらませた批判をする、ということを僕もいままで繰り返し目撃しました(こういうことを書くとはてブなどで「だれだれさんのこと」などとご丁寧な注釈がつける人もいますが、僕からするとそういう行為もヤレヤレという感じなのですがw)。これもよく経験します。今度の就職本も発売前の憶測から始まりろくに読んでないのに自分の体験で感情的な批判をするなど、本当にそういう意見はいやになりますが。そういう嫌の体験をしたリアル筆者wの人たちは本書を読むことで溜飲を下げるかもしれませんね 笑。

吉田徹『二大政党制批判論』

 今日はいままで積読だったものを猛烈な勢いでこなしていく。積読の大掃除の日である。あとで上念さんのTwitterから流用させてもらって白川日銀総裁のテレビ出演時の発言についてもコメントしたい。それは後のお楽しみ?として、いまはまずこの本である。

 日本の二大政党制は、二大「分極化」(大きな二大政党+少数政党)が実情であり、この日本的な小選挙区制度は、単峰型社会を事実上生み出してしまうことで、少数意見が無視されてしまう。これは望ましいデモクラシーとはいえない。二大政党の意見が非常に近似したものになってしまうので、選挙などの論点が一種のマーケティング戦略の巧緻の差で決まる可能性が大きくなる。

 このではどのような代替案が考えられるか。吉田氏はシャンタル・ムフの「闘技のデモクラシー」を勘案した政治的な態度を採用するべきことを提案している。政治とは敵と味方の闘争の場であり、そこでは「合意」が目指されるわけではない。絶え間ない闘争の存在こそが少数意見た意見の「種差」を明らかにし、デモクラシーの活性化につながる、という。

 なるほどな、とは思う。吉田氏はおそらく、なんらかのコミュニティや個人の利害を直接に反映する「政党」が群生し、それが各々「抗争」を繰り広げる一種のゲームを考えているのかもしれない。

「「ボクらはここにいるよ!」−−さまざまな政治的マイノリティが政治に参加する意味はここにある。マイノリティといっても、それはセクシュアリティや人種、ジェンダー、年齢層だけに限った意味ではない。政治によって不公平や不正義を被っているあらゆる共同体の構成員はすべからくマイノリティとして「ここにいるよ!」と叫ぶ権利を持っている。彼らの間に「協働性」を与えること、それこそが求められている政党のあり方である」(208頁)。

 ただ上記のような「政党」論はほとんどの人には異論がないのではないか? しかしいまの二大「分極化」を可能にしている選挙制度に、ではどう反映していくかとなると吉田氏の提言はよく見えない。本書のベースとなったシノドスの『日本を変える「知」』を読んでもはっきりしない。

 むしろいまの二大「分極化」における少数政党と民主党との「連立政権」が吉田氏のいっている「ボクらはここにいるよ!」という声を(吉田氏がどう思っているのか知らないが)反映してしまっているかもしれない。普天満基地での社民党の意見、経済政策に対する亀井大臣の発言など。まあ、亀井大臣の場合は「ボク」よりも「オレ」だろうが。

二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書)

二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書)

日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)

日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)

池上彰の珍説「デフレは日本の国民性」

 テレビ朝日の『学べる!!ニュースショー!』で池上彰が珍説を披露していた。「デフレは日本の国民性」だそうである。悪いがそんな根拠が皆無な説を公共の電波で堂々と披露するとは呆れ果ててしまう。こういう番組が教養番組のようなみせかけで、実はこの池上彰なる人物の個人的信条を流布することに使ったのだとしたら、テレビ朝日の罪は非常に重いだろう。

 いいかげん、池上彰週刊こどもニュースでの「実績」にまどわされるのをやめたほうがいいと思う。そのうち池上彰の「経済」論をまとめて批判してみたい。なお僕は見ていないのであるが、予告編では「良いデフレ」論が紹介されていたという。それが本編では出なかったことだけが日本にとってせめてもの「良い」ことだったろう。

脱デフレに向けての強力な助っ人登場:上念司『デフレと円高の何が「悪」か』

 長い間、脱デフレ論の頼もしい伴走者であった上念司さんが、ついに待望の著作を世に問うことになりました。僕も一部分はお話を聞いているのですが、今日の脱デフレ論・リフレーションの議論を含めた日本経済のさまざまな問題を、なんの予備的な知識もなく、ぱっとつかむことができるものになっています。いまから読むのが本当に楽しみですね。いよいよ勝間ショックに始まる今回のリフレ論争の期待の新星の登場です!

デフレと円高の何が「悪」か (光文社新書)

デフレと円高の何が「悪」か (光文社新書)