『一般理論』にあるただ一つの経済政策

 よく公共事業とかがケインズの政策である、という風に昔から教えられてきたんだけど、あの難解なケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』を読んでもそんなこと微塵も書いてないと思う。で、僕が読んだ記憶に基づけば、ただひとつケインズがこの本を通じて提唱している政策が、リフレと硬直的貨幣賃金政策の組み合わせ、だと思う。これはより正確には、将来にむけた貨幣供給量の増加とそれに適応した将来に向けた貨幣賃金の増加政策の組み合わせ。これをケインズは『一般理論』の中でほぼただひとつ系統的に政策論として提起している。私見では、このリフレと固定貨幣賃金政策こそ「投資の社会化」の核心部分でもある。

 これは貨幣賃金を不況に応じて低下させていく政策(伸縮的貨幣賃金政策)や、伸縮的貨幣供給政策(=日銀流理論、日銀とは言わないけれども。不況に応じて貨幣を伸縮的に操作して利子率を低下していく受動的な政策)が経済の不安定性を高めてしまうことを、ケインズが「古典派的理論」の弊害として指摘している*1。この弊害の中にはワークシェアリングのような手法も含まれる。

 さてこの「古典派理論」(伸縮的貨幣賃金、伸縮的=受動的貨幣政策)への批判を踏まえたうえでの、ケインズの政策(リフレと固定的貨幣賃金政策)をどうもフォーマルにきちんと定式化したのが、松尾匡さんの(僕をネタにもしているw)今日の置塩モデルの解説であるようだ*2。いままで、僕は松尾さんのリフレ論の基礎がわからなくて冷たい対応してたけど、謝ります。ペコリ(あ、下げた顔のぞかないで 爆)。

松尾匡ウェブより「『脱貧困の経済学』と最低賃金問題と置塩モデル』http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_90922.html

以下引用(あとで携帯で読むので自分のために大幅コピペ)

 それで、ここで考えてみたいのが、こうした将来の賃金上昇予想が、企業の設備投資に与える影響です。金融緩和が信頼されていて、賃金上昇といっしょに自分のところの製品の売値も上昇すると予想されるならば、リフレ効果だけが出て、投資が増えるのは当然です。しかし、検討してみたいのは、製品の需要条件については変わらなくて、賃金の上昇だけが予想される場合です。そんなもの、投資を減らすに決まっていると思われるかもしれませんが、実はそう言い切れないのです。
 この問題については、師匠置塩信雄の手がけた研究があります。
 もともとは、問題意識はある意味で逆で、ケインズが、将来の賃金の下落が予想されると設備投資が減ると言っていて、その推論の妥当性を検討するためにやったものです。
 この研究は次の二つが発表されています。
田豊明・置塩信雄「予想貨幣賃金率と投資決定──ケインズ投資モデルの再考」『季刊理論経済学』第38巻第3号、1987年9月。
置塩信雄「新投資決定のパラドックス」『現代経済学II』(筑摩書房、1988年)第4章、第3節。
 どちらのモデルでも、将来の賃金が下落するとケインズの言う通り設備投資が減る、逆に言えば将来の賃上げが予想されると設備投資が増えるという結論が導かれています。なぜこのようなことが起こるのかについては、前者の鷲田・置塩論文では詳しく検討されているのに対して、後者の著書中のモデル分析では詳しく解説されておらず、これまでは鷲田・置塩論文のメカニズムと同じだろうというぐらいに思われてきたと思います。しかし、このほど後者のモデルをよく検討してみたら、実は違うメカニズムで起こっていることのようだということがわかりました。
 鷲田・置塩モデルは、規模に関して収穫逓減(生産が増えると生産性が落ちる)の生産関数で、資本(機械や工場)が二期間存続して消える仮定のもとで、利子率で割り引いた利潤和を最大にするように設備投資を決める問題を解いています。その結果、三期目の貨幣賃金率が下落すると、そのときにはもう存在しないはずの一期目の資本の設備投資が増えるということを導いています。その原因は、三期目の賃金下落が見込まれるならば、そのとき使用される資本を買う二期目の設備投資が増えるのですが、二期目の市場状態の予想に変わりがなければ、そのときに計画される生産を担う一方の資本の量が増えるので、他方の、一期目に投資される資本の量は減らなければならないというわけです。すなわち、異時点に投資される資本間の代替からこのような結論が導かれることになります。
 だから、この結論は一般化されるものではなく、三期目の賃金が下がれば一期目の投資は増えますが、四期目の賃金が下がれば今度は二期目の投資が増えるので一期目の投資は減ってしまいます。一期目の投資は、一般に奇数期目の賃金が下がれば増え、偶数期目の賃金が下がれば減ることになります。

 これではケインズの推論は一般にはあてはまらないということになってしまいます。二番目の『現代経済学II』中のモデルも同じメカニズムだったならば、やはりそうなっているおそれがあります。しかし、実は『現代経済学II』のモデルの仕組みは別のもののように思われます。
 今度の生産関数は一次同時(生産が増えても生産性不変)を仮定していますが、「技術選択関数」と「稼働関数」を区別します。資本・労働の組み合わせを机上で計画する時の生産関数は「技術選択関数」で、一旦この中の技術が一つ選ばれて据え付けられると、その技術の資本・労働比率を正常稼働としながら、労働の投入を増減させることによって、技術選択関数上よりは非効率な「稼働関数」にしたがって、正常稼働よりも高い生産や低い生産を実現できるというわけです。このもとで、右下がりの需要曲線に直面する不完全競争を仮定して、二期間存続する資本の投資量を、利子率で割り引いた利潤和を最大にするように求めます。同時に、各期、各設備の、技術や稼働率も利潤和を最大にするように求めるわけです。
 そうしたら、やはり三期目の賃金が上昇したら、一期目の設備投資が増えるという結論が出たわけですが、これはよく検討すると、次のようなメカニズムによって起こっていることのようです。
 今度のモデルの想定では、一期目に設備投資された資本は、二期目、三期目と生きることになっています。二期目の賃金が不変で、三期目の賃金が上がると予想されるので、この資本の技術は、二期目の賃金と三期目の賃金の中間の賃金に対応した技術にして、二期目は正常より高い稼働にして、三期目は正常より低い稼働にして運転するのが最適になります。それゆえ、三期目の賃金予想が上昇する前と比べて、この技術は資本集約的になります。ところが、二期目の生産は需要曲線に直面してある程度制約されていて、この制約の中で資本集約的になるためには、労働を減らすよりむしろ資本を増やして対応しなければならないことになります。そこで、一期目での設備投資が増えるということになるわけです。
 早い話が、将来の賃金が上がると予想されたならば、それに備えて機械化を進めるために、今の設備投資が増えるということです。
 置塩のこの研究は、企業のミクロ的な最適決定の話しかしていなくて、このマクロ的効果は検討していないのですが、もしこの効果が大きければ、この設備投資増加の結果総需要が拡大して景気がよくなっていくということもある得るということになります。

 あとこれ重要だけど、この固定貨幣賃金政策を、最低賃金制度で行うべきなのかは議論があるでしょう。個人的には避けた方がいいと思う。理由としてはケインズも書いているけど、例えばオーストラリアでの失敗のように、この最低賃金が実質賃金の法的拘束になると逆に経済が激しく不安定化してしまう可能性もあるから(制度設計の問題ともいえるけど)。原論文みないで松尾さんの説明だけ読んだかぎりでは、リフレと将来貨幣賃金の切り上げならばいいわけだから、あえて最低賃金の引き上げという制度的枠組みでなくともいいのではないか、と思う。例えば所得政策がでてくるのかな(これはこれで議論がありそうだけど)。

 ところで上のリフレと固定的貨幣賃金政策、繰り返すけど言いかえると、将来の貨幣供給の増加に対応した将来の貨幣賃金の増加との組み合わせ政策は、ケインズの『一般理論』の「貨幣賃金の変化」の章。岩波文庫版だと下巻の最初。

 この章はケインズのただ一つの政策提言の章なのになぜか小野さんの『不況のメカニズム』ではリフレ政策の否定のロジックに使われて*3後はケインズ自身の政策は省略。まあ、ここでその政策について触れると小野理論体系的にはケインズ的と名乗れなくなるからまずいわけで。宇沢さんの『ケインズ『一般理論』を読む』にはちゃんとこのリフレと固定貨幣賃金政策を「ケインズ主義」であると書いているんだけど、なぜかそれは声高にはいわれないで片隅でささやかれている印象強し。それに将来経路の話には宇沢さんも触れてないでしょう。そんなわけでなぜか『一般理論』のただひとつの政策提言は、さっきまで(松尾エントリーまで)日本で声高にはいわれてなかったという不思議な罠

雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉 (岩波文庫)

雇用、利子および貨幣の一般理論〈下〉 (岩波文庫)

*1:もっとありえんくらい貨幣賃金を一気にさげたり、あるいはハイパーインフレになるくらいw貨幣供給を増加させればこれらの伸縮的政策でも深刻な不況から回復できるとしている。ただ前者はそんなの社会主義国でなければ無理。後者は貨幣の信任揺らぎ過ぎになるから無理と否定

*2:ちなみに置塩モデルはミクロマンでありが、マクロベースでミクロ基礎に頓着しない 笑 モデルは結構むかしからある

*3:理由はこのエントリーの注1と同じ

政府は日本銀行への「自主規制」をやめよ

 最近のid:Baatarismさんの記事は納得の記事が多い。今日の記事でも以下の部分などはまったく同意したい。

 「鳩山政権の金融政策は、まだまだ混迷しているようです。」より抜粋。

日銀法の第4条には「日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない。」とありますが、日銀の政策が政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるようにするためには、政府も日銀に求めることは言わなければなりませんし、日銀も必要な要求は取り入れなければなりません。藤井大臣のように「政府が日銀の判断に介入すべきではない」と言ってしまうと、政府が日銀に何も言えなくなってしまい、日銀の政策が政府の経済政策の基本方針と整合的なものにならない恐れがあります。

 結局は政府が早々と日本銀行との協調を明示的に行わないまま、政府不介入=日銀の放任 という自主規制をとることは、自分の政策の手番をわざわざ拘束することで、そろそろそういう茶番はやめたほうがいいと思うのだが。自公政権の二の舞を踏むだけだと思うけどね。

トマス・アクィナス『君主の統治について』

 アクィナスの文庫本初登場。その昔、経済学者の上田辰之助が『聖トマス経済学』の中に訳したことがあるが、今回のものはやはり時代に合わせて非常に読みやすい訳文。また丁寧で詳細な解説がついているのも助かる。柴田平三郎氏の次の一文が本書におけるアクィナスの主張を簡潔にまとめている。

「ただ、そこでトマスがアリストテレスに倣って、人間を自然的本性として「社会的および政治的動物」であると強調している点について、いま一度注意を喚起しておきたい。トマスはそうした人間本性のうちにあるもろもろの共同社会的な徳性(友愛・真実)を相互に培いながら、なによりも「共通善」の実現に配慮する権威を中心として「単に生きること」ではなく、「善く生きること」を求めていこうとしている。このトマスの思想は西欧中世という、私たちのとって遠く、無縁な過去の世界に封印されてしまってよいものではないと思う」(文庫版へのあとがき、237頁)。

 この柴田氏の解説の一文中の「権威」を「政策当事者」に置き換えれば、それは公共政策の担い手たちへの指針ともなるのだろう。実際に、トマス・アクィナスの政治・経済的な思想は、日本でも福田徳三、上田辰之助五百旗頭真治郎、野沢武敏らの業績を通じて社会政策思想、経済思想になんらかの影響を与えてきたといえる。上記のようなアクィナスの政治思想の中で、より具体的に経済的な事柄はどう位置づけられるのか?

 本書『君主の統治について』は主に二点指摘することができる。

1)個人の「善く生きること」を成し遂げる手段としての重要性

 「ところで個人の善き生活には二つのことが必要である。一つの、そして最も重要なことは徳にしたがって行動することである。徳とは善く生きる根拠である。もう一つの、そして二つ目のことはいわば手段に関することであるが、物質的善の充足ということであって、その使用は有徳な行為にとって必要なのである」(邦訳93ページ)

2)都市=都市共同体にとって適度な商業の利用が都市発展にとっては重要である。

 これは本書の最後部で書かれていることである。完全に商業を都市から排除することは都市を衰退させるが、(生活必需品の交易など)適度に行えば都市は栄える。ここでアクィナスは商取引に従事しているのは都市住人ではない、主に外国人を考えていた。また同様に商業を都市住民が行うことは利害にめがくらみ徳性の涵養を損なうことで都市を没落させる、とも書いている。

「だからといって、もし市民が自ら商取引に従事するとしたならば、多くの弊害のきっかけが生じることになるであろう。というのは、商人たちの関心が商取引を通しての営利へと向けられるので、市民たちの心に貪欲が伝わり、そこから都市にあるすべてのものが売り物となってしまうからである。そして信用は地に落ちて、そこに詐欺が横行する。公益が蔑視されて、各人は私欲に走る。そして徳の報酬である名誉が万人に与えられるので、徳の涵養が衰退する。それゆえ、このような都市においては、市民の共同生活が堕落することは必然であろう」(邦訳106頁)。

 徳の報酬が万人に与えられるとなぜ徳の涵養が衰退するのだろうか。統治の主体たる王にも報酬がある。それはより高い徳性に応じて与えられるより高い名誉である。このときの「名誉」とはその徳性のランクに応じて位階をもつと考えられる。世俗的で私的な利害の実現に対しても名誉は与えられるだろう。例えば単に富を人よりも多く所有していることに対して与えられる名誉はその意味での低いランクの徳である。この種の低いランクの名誉で人々が甘んじるときに、より高いランクの徳を追及しようという動機もまた廃れる。より高い徳とは、人々の共通善を追及すること、特に王の統治についていわれている。王の統治が失敗すれば、万民が低いランクの名誉に甘んじ、そのとき共同体は衰退する、ということを言いたいのだと思う。

 公共政策、社会政策の倫理的基礎を考える上でも読んでおいて損はないだろう。

君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる (岩波文庫)

君主の統治について―謹んでキプロス王に捧げる (岩波文庫)

自己組織化臨界現象と資本主義の崩壊

 最近、忙しくて、まるでその自分の状態を示しているかのような題名の本。Joshua Cooper Ramoの
The Age of Unthinkable : Why Tne New World Disorder Constantly Surprises Us and What We Can Do about It 。ラモの『思考不可能な時代』を読んだ。ガルブレイスの『不確実性の時代』に題名だけは似ている。実はガルブレイスのその本は読んだことがなくて(笑 最近読んだの以外は初期の価格統制本しか詠んだ記憶ないっす)、あとで本屋にでも買いにいこうかな、と思っております。

 ところでこのラモ氏の本は、パー・バク(理論物理学者)の自己組織化臨界現象というアイディアを今回の経済危機やテロリズムなどに適用して、とられるべき社会的なセキュリティはなんなのか、というテーマで書いた本でした。自己組織化、複雑系、カオスなどなどちょっといままで避けてたテーマ群なんだけど(院生のときに非線形動学の基礎はなんか学んだ記憶が 笑)、この本はすっきり読めました。自己組織化臨界現象というのは、そのバクの説明を簡単に約めると、砂山を一粒一粒砂をおとしながら円錐形に作って行く。はじめのうちはうまく山ができていくんだけど、ある一定の大きさの山になってしまうと、大きな崩落がおこりやすくなる。で、いったい何番目の砂粒がその大崩落を引き起こすかはわからない。わからないけれどもシステムは規模が大きくなるほどに予測不可能な不安定性をはらんでいる……という感じでしょうか。

 (このバクの理論を応用した)ラモの本はなかなか面白くて、例えばアラン・クルーガ―の『テロの経済学』とも近い趣旨のテロリズムの分析を提示していると思います。実はこれも仕事まわりで読んだ本なんだけど、これを読んでからタレブの『ブラック・スワン』をもう一度きちんと読むかな、という気にはなった。ちなみにバクの方は、実はかのマイケル・ウッドフォードと一緒に景気変動をめぐるやはり自己組織化臨界現象を適用した論文を書いてたり、それを一般向けに紹介したのが、ポール・クルーグマンの『自己組織化の経済学』。ここらへんも院生のときに読んだ記憶(もちろん英語論文ベースで。当時は翻訳はなかったはず)があるんだけどもう忘れたなあ。

クルーグマンの本はアマゾンでは品切れですが、ここに訳者あとがきhttp://www.ier.hit-u.ac.jp/~kitamura/PDF/B201.pdfが読めるので便利

The Age Of The Unthinkable: Why the New World Disorder Constantly Surprises Us And What To Do About It

The Age Of The Unthinkable: Why the New World Disorder Constantly Surprises Us And What To Do About It

自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか

自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか

上田辰之助・岩井克人の井原西鶴論

 上田辰之助の傑作エッセイ集に『経済人の西・東』というものがある

 このエッセイ集の中には、「日本資本主義の精神」とでもいうべきもののヒントがいくつも隠されている。「『日本永代蔵』と『イギリス商人大鑑』」や「西鶴の「経済人」像」などはその代表的なものであろう。本来は英文のものを弟子たちが日本語訳して再構成したものである。

 ここで上田は井原西鶴と同時代人といえるダニエル・デフォの商人像やマンドヴィルら思想、さらにはラテン語の伝統にまで遡る形で、井原西鶴における「商人」像を検討している。

 西鶴にとって商人の経済活動を追うことは、「富への道」を追求することであり、またそれは「一家のための富と繁栄」を追及するためのものである。デフォは同じく富への道を追求しているが、デフォウが一個人の金銭的成功とさらにそれに立脚した上での国家経済の繁栄までも射程に入れていたのに対して、西鶴の商人道はあくまでも一家の繁栄という制限を伴うものであった。そのため家産のやりくりのために主婦たちの位置が非常に戦略的な重要性を持っている。

 西鶴の推奨する経済的道徳は「才覚」と「始末」である。上田はこれをマンドヴィルのいうindustryと同じものとして解釈している。それは「獲得への渇望と共に環境を改善せんとする飽くなき欲望」を意味する*1。その意味でdiligenceとは異なる(しかし西鶴も勤勉を重視している)。また「始末」とはアダムスミスが推奨したような「節約parsimony」を意味する、と上田は指摘している。「始末」によって「命の親」ともいうべき「金銀を溜むべし」という。

 また「才覚」と「始末」は商業上の正直さ(借りたお金は利子をつけてきちんと返済すること)をめぐる問題でも重視されている。慣習に反しない程度であれば黙認されるが(例えば借金返済を慣習の許す範囲で待ってもらうなど)、歴然とした詐欺行為に利用されたときは厳しく批判されるべきだ、と西鶴は考えていたという。破産はこのとき最も回避すべき正直問題のひとつともいえた。正直な商人は莫大な債務を返済しないまま破産してはいけないのである。

 「才覚」と「始末」を行動原理としてもった商人にもさまざまなレベルが存在する。「大商人の心」「商人心」の最も素晴らしいのは大商人の「大腹中」というべきもので、それは「このふたつ物賭けずしては一生替ることなし」という、市場判断を踏まえたうえでのリスキーな投資への「賭け」を行うことであった。また「旦那」として多くの使用人を抱えれば抱えるほど「大商人の心」をみたすものとして尊敬されてもいる。

 さて上田は、西鶴の他の作品にも目配りをしたうえで、なぜ花魁や遊郭が町人文学の本質的要素になったか、という問いを提起している。それは階級差別が存在し、いくら富を蓄積しても武士階級そのものを入手することができないでは、自然とその消費が武士と対等になりうる享楽財の支出に向けられた、としている。これは面白い指摘だと思う。

 ところで井原西鶴の経済人像を扱ったほかに興味深いものとしては岩井克人の「西鶴の大晦日」という論文がある。これは『二十一世紀の資本主義論』に収録されている名品である。ここで岩井は貨幣の論理(実態と離れる形で無限の名目価値を増殖していく、それ自体がバブルな存在としての貨幣)を体現したものとして西鶴の小説を読み解いている。そこでは無限の貨幣価値の増殖を追求する金貸しが出てくる。この金貸しは岩井は書いていないが、上田のいっている意味での「才覚」(意表をつく資金調達法の考案)、「始末」(金銭の増殖を目的とすること)を備えながらも、きちんと正直の道も守る(借りたお金は利子をつけてきちんと返済)という商人像そのものが、岩井の論文でも描かれている。

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

二十一世紀の資本主義論 (ちくま学芸文庫)

*1:上田はこのindustryをラテン語のindustriaに由来し、そのときから単なる勤勉よりもずっと動的な意味がある、と指摘している