山形さんの商人道書評

 下のエントリーは主に松尾反論むけ。こちらのエントリーは山形書評向け。

 http://cruel.org/other/matsuo/merchantsandsamurai.html

 山形さんは書評の終わりの方で、「韓リフセンセイもこれをある程度は評価しているようだけれど、経済思想史研究やってる人間としてこういうのって腹がたたないのかなあ。」と書かれている。そんなにこの本が全否定に値するものとは思わないけど、だからといってこの松尾さんの本に賛成しているかといえば経済思想史研究ベースでいえば否定的ですね。

 実は山形さんの書評はするどい着眼点をもっていて、松尾さんの商人道への幻想を的確についている。ようやく思い出したが担当編集者や審査に加わった人たちに会った時に口頭でそのむかしいったことがある。ほぼ松尾さんと同じ主張を戦前に福田徳三が『現代の商業及商人』という本の中で言っていて、武士道や士魂商才を批判し、「新しい商人道」を説いている。

 福田はそこでおおむね今回の松尾本と同じように、商人道=開放個人主義とし、武士道=身内集団原理 とした上で、前者がより多くの成長と公平につながるとして称揚した。このベースにあるのが福田の産業の総帥みたいな考え方だ(一橋大学の伝統のひとつ)。

 ところが他方で、すでにこのブログでもそして『昭和恐慌の研究』でも書いたことだが、この商人道の主張者である福田徳三が同時に清算主義の主張者であったことが、僕にとっての経済思想史的なテーマとしてあるわけです。

 ですので、松尾さんが商人道をそれほど称揚することは僕の経済思想史研究からいうと「なじみ深い話」であると同時に、松尾さんが商人道のもつ危険性を徹底的に考えていないようにも思えたのです。

 で、今回の山形さんの書評では、以下のことがかかれている。

 つまり、社会全体のパイが成長していれば、メンバーの利益と組織の利益、社会の利益が相反する状況は非常に少ない。だから自分が儲かれば組織も儲かり、社会全体も成長するという仕組みができて、非常によい循環が生じる。でもパイが育たないとき、はじめて社会と組織、組織と自分との間で利益背反の状況が生じる。身内意識は、そのときには社会より組織を優先したりする結果をもたらしやすい。でも、それに対して松尾のように「だから身内意識はよくない、身内意識をつぶせ」というだけが答えじゃないだろう。パイが拡大していれば、そもそもそういう問題自体が発生しにくいんだし、強い結束を持つ集団にはいいところもあるんだから。


 この指摘なんかは、僕も日本型サラリーマン論を書いたときまったく同じ主張をしている。そこでは日本型サラリーマンの残酷さ(身内原理→会社中心主義)をもつ半面、パイが大きくなればそんなにまずいシステムではなくかなりうまくシステムはまわる。システムの不調が問題よりもパイが大きくなってないのが問題、ということを主題にして書いた。その主張とこの山形さんの書いた文は同じ視線だろう。

 さらに

  あと、ぼくは「はだかの王様」批判で、ぼくは、かれがパイを広げる経済成長をありがたく思っていないようだ、と述べた。それに対して松尾は、そんなことはないと答えたんだけれど、ぼくは納得していない。そして今回、その思いをさらに強くした。経済成長してパイが拡大する世界は身内主義や「大義名分/逸脱手段」がかえってうまく機能してしまう可能性がある世界だ。松尾はそれを漠然と認識しているんじゃないかと思う。パイが拡大したら、本書で松尾が望ましいとしているものはすべて崩れる。かれはそれに内心気がついているんじゃないか

 少なくとも上の福田徳三の商人道(=反武士道)がもつ清算主義との連盟は思想史的に過去にあった。武士道=身内集団原理システムがなんらかの経済的まずさの根源にあると認識し、それを清算主義的に片付けようというマインドとかならず結びつくものかどうかは議論の余地があるが、それでも山形さんがそういう要素を松尾さんの発言にみることができるのだとすればそれはそれで興味深い、感情的なものを排した論点となるだろう。

 より簡単にいうと商人道がどんなにいいと唱導しても、過去の思想史的な遺産からいうと、清算主義的な主張にむすびつくことで、反経済成長と親和的な部分もあったということ。というか経済思想ベースでいえば、商人道+清算主義の猛威とそのマイナスの遺産の方が、武士道なんかよりよほどひどかったことを、松尾本は華麗にスル―しているところにそのむかし、遺憾の意を各員に表明したことがあった。あと福田の商人道についてはいま書いてるので邪魔しないように 笑

(追記)エントリー題名がなぜか「さん」づけに 笑。まあ、いいか。

松尾匡『商人道ノススメ』の山形書評への松尾反論

山形さんの書評をむりやり一言でまとめると「松尾は自分のイデオロギーにあうように商人道を構築してそれで宣伝しているだけ」ということになろうか。

この山形さんの書評への反論を松尾さんが書いている

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_90808.html

「武士道」の検討は不十分です。すみません→ というとこの段階で、本書の半分は山形さんの反論に屈したことになるのではないか。なぜなら松尾流商人道は武士道への批判と対になっているわけで、その反論する相手が、歴史的あるいは現実的に明確でないと、松尾さんの本が意味をなさない批判行為になるのではないか? この松尾さんの反論の中でも書かれているが、新渡戸の武士道は松尾さんが批判する武士道と違うのか、みたいな印象もある。『葉隠』もちゃんと読んでないという。じゃあ、いったい「誰が」「どこで」いった「武士道」なのか?

 これは『経済政策形成の研究」での松尾論文に対して、そのむかし、僕がした批判にからんでくるが、松尾さんがあそこで批判している反経済学的思想とはいったいだれがどこでいったのか具体性がなかった。それにたいする松尾さんの答えは確か掲示板とか周りにいる人の発言みたいなレスだったような…今回の反論でも「武士道大好きおじさん」がでてくるがやはり不特定多数のそういう「おじさん」が反論の対象なのかな? そういう武士道空気や反経済学空気を批判すること自体が、別種の空気の作成そのものなんじゃないのか? 空気対空気で、結局、単なるイデオロギーイデオロギーとみなされてしまうのではないか? 

 いいかえると身内集団原理=武士道の凶暴性がいったい誰がどこでいったかを明確にする作業なしで、天下り的に書かれていることが、今回の反論でよくわかってしまう。あまり具体的な検証をしていないのであれば、それは山形さんが本書を「政治的プロパガンダ」とみなしても、その過激な表現を抜きにしてこれを否定することは難しいんじゃないか……つうか、そこはちゃんと歴史的に文献調査するように、というのが審査のサジェスチョンだったんじゃないかな。

 あと「商人道」は、松尾さんのいうようほどには、過去の日本の経済思想史の中で、そんなにええもんでもなかった、ということがいえるんだけど。それこそ松尾さんの反身内集団原理としての「商人道」というものが、それこそ清算主義的な行いと切り離すことができなかったという「商人道」の失敗の歴史があることも、確か僕は指摘したはず。ご本人に対してかどうだかパソコンがこの春にクラッシュしたのでデータないのでうろ覚えを書いとくけど。

 なお、画像と本文には因果関係はありません

 ↑の写真、はだか祭と比べると静かなもんずら(なぜか銭ゲバ


ようやく前期終了ールールがあるからって厳格運用すること自体が自己目的化するのはどうなのか?−

 ようやく前期の日程を終えた。疲れた。なんでこんなに前期の講義日程が長いのか理解できない。どうも背景には文科省のなにがなんでも15週講義+試験 という規制があるようで、これを絶対厳守するために各大学・大学院では祭日も講義したり、世間はお盆なのに講義したりしてやりくりしている模様。そりゃ、規則だから、といわれればそうだけど、縦割り行政の弊害というかなんというか、所管官庁は忘れたけど休祭日を規定する法律のおかげで月曜や金曜などが頻繁に休みになり、その枠内で4月から7月まで毎月単純に4回ずつで16回という単純換算で無理強いしたら、どの大学も講義日程がきつきつになり、学校行事をいれたら最後、8月にとびだすわ、休祭日も講義だわ、夜まで講義だわ、とてんてこまいになるのは目に見えてるはず。ルールを守るのは重要だが、厳格に運用して数字を守ること自体が自己目的化して、それで学生も教員もこんな真夏日にふらふらになって(しかも地球温暖化規制で教室の温度も各大学とも非常に高め設定。これも一律厳格適用してるのではないか)講義や試験をやるのが望ましいとは思えないけどね。柔軟かつ各大学・大学院の実情にあわせて運用するのがいいんじゃないのかな? どうなんでしょ、そこんとこ、ここをご覧の大学関係者(教員、職員、学生、保護者、官僚wなど)のみなさんの意見は?