鹿児島国際大学3教授解雇事件についての主な裁判経過


 akamacさんのブログより:「不当」処分を受けた教職員が内部事情を駆使しながら存分に発言したり反論したりする自由はないことに気がついた。:

 http://d.hatena.ne.jp/akamac/20080331/1206958027

 八尾信光さん曰く:公益法人であり国の補助金も受けながら大学を経営している学園としては,以上のような裁判所の判定を厳粛に受け止めて,判決を踏まえた誠実な対応をすべきです:


 御意。


 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080325#p5も参照のこと

ウンコの経済学4.1vers

 いままで経済学はさまざまな問題を対象にしてきた。妻と愛人の経済学日本列島がフィリップス曲線から導き出される経済学ネットイナゴの経済学山形浩生の珍子たぎらせ経済学などなど。しかし我々はまだ人間活動の深遠なる領域に手付かずのまま残されているミステリーゾーンがあることを知っている。そうだ、日々我々が行う例のもの。ウンコとおしっこの経済学だ。残念ながら屁の経済学はこの両方に比べると必ずしも日々の重要時ではない。げっぷやあくびなども興味深いが生活に欠かせない局面とはいいきれない悲しさがある。これらの瑣末で愛着のある行為に比べると、ウンコとおしっこは実に重大きわまる行為であり、以下で明らかにしたいが経済学的にも興味のある帰結をもたらす。


 ところでウンコとおしっこは代替的な関係にはなりえないが、他方で興味深い(準)補完的関係を有しているといえる。詳細な調査は後世に託したいが、我々の一定多数あるいはほぼ全員が、便器に腰掛けて、おしっことウンコを同時にすることが可能である。生理的な要求ないし心理的な障壁のために同時発射を抑制するグループの存在を確認しているが、それでも同時発射ないし間断なき発射は、毎回ではないにしても多くの人々が経験することであろう。以下、我々は経済学の作法にのっとり単純化のためにウンコを考えればおしっこも考えることができるとして、対象をうんこに絞る。もっとも男性の場合には、立ち小便器で大をもよおすととんでもない違法行為(公序良俗違反)に発展するがこれも簡単化のために無視しよう。


 さて我々の多くは学生であったり、また勤め人であろう。ある種の調査によると排便行為は賃金水準と重要な影響関係にあるという。例えばスマートな排便は賃金や仕事に好影響を与えるようだ。日本のような終身雇用・年功序列の企業システムではまま観察されることだが、社内のトイレが「いま誰が使用しているのか」あるいは「誰が使用した後なのか」わかる場合が結構あるという。また学校ではなぜか日本人の多くはうんこをするのを控えるというのもやはり誰がしたのかわかってしまうあるいはわかるのがいやだ、という心理が働いているのではないか。これは日本のような閉鎖型社会の負の側面かもしれない。他方で、このことはうんこを企業や学校ですることがその人の業績に深い影響を与えることをも意味している。そんなものを業績に反映させるのがいいか悪いかの判断は価値判断なので別途いつか検討しよう。いまはあくまでも実証分析にしぼる。


 例えばスマートな排便はその人の評価を上昇させる可能性が大きい。そのため排便時の排水、終了時の芳香剤の使用、便器の清掃、そしてできるだけ頑張ってうんこが出る音を小さく抑える努力などなど、スマートな排便の努力は日々並大抵ではないだろう。うっかり誰もいないと思って史上最大の放屁とともに具を発射してしまい、終わったあとに出てみるとそこで鼻をつまんでいる上司がいたりするともう大変だ。このようにスマートな排便の努力をeとすると、賃金水準wはこのeに影響を与えるので、排便努力関数e(w)として表現される。図では縦軸に排便努力量を描き、横軸には賃金水準を描いた。




 排便努力関数が図のような形状になるのは、先ほどの終身雇用・年功序列型の日本システムを前提にすると理解がしやすい。若い時は賃金が低いので、賃金はスマートな排便をしようとする努力に強烈に作用する。若い男女が排便時の音や匂いに非常に敏感なのはこの賃金構造に基づく。それに対して中高年のおっさんたちを考えればわかるが、賃金が年功とともに高まるとスマートな排便をしようとする努力が減少していく。例えば中高年のおっさんが100人使用した後の便所に入るのは勇気がいることだろう。これはまさに新制度学派的うんこ経済学の核心部分といっていいだろう。


 厳密な計算過程を省けば、図表にある賃金w*はもっとも排便努力のコストを最小化したときに実現される賃金水準を示している。この賃金水準を「排便努力賃金」と名付けよう。この排便努力賃金は制度的な下方硬直性を持っていることが別途証明されている(田中『ウンコの投げあい』近刊参照))。


 このことの持つ意味は社会的にも実に重大である。なぜならいま労働供給サイドの賃金水準(w1)が、この排便努力賃金(w*)以下だとしよう。このとき実際に支払われる賃金水準はw*である。つまり雇用者はw1で労働者を雇用できたにもかかわらず、それよりも高い排便努力賃金を払うのである。誤解を恐れずにいえば、雇用者は従業員によりスマートなうんこをしてもらいたいために賃金を市場価格よりも割り増しで支払うのである。おそらくトイレでしばしば見聞される「トイレは清潔に!」という趣旨の張り紙はこの種のコストを賃金以外の手段でコントロールしようとする雇用者の必死の努力の表れなのであろう。


 ところで当然にこの排便努力賃金で支払いが行われると、労働市場の需給一致の賃金水準よりも高いために、労働供給>労働需要になってしまう。排便努力賃金は下方硬直性を上述のように持っているので、この需要と供給の不一致は賃金の調整で解消されることはなく失業が発生してしまうだろう。


 このことは今日の日本社会の構造的失業のいくばくかが、日本型雇用システムの下で日々排便に悩む従業員のまさにうんともいえぬ努力ゆえだということが示唆されているのではないか? 


 私は日本の構造的失業がこの失われた十年でそれほど増加しているようには思えない。しかしまさに根糞のように存在するこの下方硬直性を長期的に緩める方法は、遠慮勝ちにすぼんでいた肛門を緩めること、すなわち壮大な脱糞であることを意味しないだろうか?