猪瀬直樹『作家の誕生』


 以前、NHKから放送テキストとしてでていたものを全面改稿したもの。作家の「市場」をメディアの盛衰とともに記述したもので、当時もいまもほとんどないもの。作家の市場性(所得の構造など)をメインテーマにした作品としては他に日垣隆『売文生活』(ちくま新書)など数えるほどしかない。作家市場を歴史的に総体でとらえるものとしては当分スタンダードになるのでは。

作家の誕生 (朝日新書48)

作家の誕生 (朝日新書48)


ともあれ副知事受諾、これから大変でしょうが頑張ってくださいm( )m

 チェオクの剣vol.1

ハ・ジウォンって『リメンバーミー』のころのがきんちょぽいイメージしかないからこの作品の凛々しさに仰天。特撮はかえって邪魔かも。第1回はカメラワークや編集が落ち着かず(たぶん日本語ヴァージョンでカットされてるところ多い?)わけがわからなかったが、二回はかなり完成度高い。これは面白そう。

チェオクの剣 オリジナル・サウンドトラック(DVD付)

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ローゼン閣下


 麻生外相のニート擁護論はいいね。立ち読みで新刊をすませてるわけだけど新書の方だけは購入しようかなあ。以下、一時的に削除するかもしれない草稿、少したったらまた復活予定。

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 社会保険庁年金記録漏れを中心とする問題で、安倍政権のただでさえ脆弱だった世論からの支持は一段と低下し、誰の目にも“ポスト安倍”が現実味を持ち出してきている。ここに来て後継候補の中で一人気を吐いているのが、“ローゼン閣下”こと麻生太郎外相である。書店にいけば、麻生外相の新刊『自由と繁栄の弧』(幻冬舎)、『とてつもない日本』(新潮社)が平積みされ人気を呼んでいる。またインターネット上での麻生外相の人気も相変わらず高い。外相のネット上での愛称である“ローゼン閣下”とは、彼が愛読していると発言した『ローゼンメイデン』というかなりマニアなコミック(少女型人形がバトルを繰り広げる話)から採られたものである。外相のサブカルチャーへの理解は、ネットの「オタク」たちからも熱い視線を向けられている。例えば国際的評価の高いインターネット辞書であるwikipediaの「麻生太郎」の項目では、他の政治活動での貢献を圧して、外相のコミックへの発言が詳細に取り上げられていることからもわかる。以前、ここで紹介したように、麻生外相はまさに中川翔子眞鍋かをり同様にネットアイドルの資格十分なのである。


 外相自身もこのオタク層の人気を意識していて、先の自民党総裁選ではわざわざオタクの聖地である秋葉原に遊説にでかけ、「オタクのみなさん」に支持を訴えたのは記憶に新しい。また国際漫画賞の提唱や、国際会議で議題に関連する日本の漫画を頒布して漫画外交を展開していることも、オタク層を十分意識してのものだろう。


 『とてつもない日本』では、いわゆる「ニート」擁護論を展開し、若者の独自の生き方として積極的に評価すべきである、と言い切っている。ニートを問題視して「ニート」対策を名目に天下り先や予算拡張を狙っている組織の活動が目立つなかで、外相のニート擁護論は、ニートが多いと噂されるオタク層のこれまた熱い支持を得るのに貢献している。 

とてつもない日本 (新潮新書)

とてつもない日本 (新潮新書)

 
さらに日本のインターネットでは、ナショナリズム的な意見が支持を得やすくなっている(もっとも国際的にみてもネットではナショナリズム的発言が蔓延しやすいことが知られているが)。特に“嫌中・嫌韓”などといわれる潮流にネット的なナショナリズムの動向が現れているといえる。麻生外相は、『自由と繁栄の弧』で、独自の小国主義的な外交姿勢を展開している。それは、日本―東南アジア、南アジア、中東、欧州が外交上の連帯を強めることで、大国主義的なユーラシア大陸の諸国(中国、ロシアなど)を“弧”の形で取り囲むような国際主義の輪を作り出す、というものである。外相の真の意図は、対抗的なナショナリズムとは無縁なのだが、それでもネットでは間違ったシンパシーを生み出しているようである。


ところで外相が総理総裁を狙うとして、このようなオタクたちの支持は世論の支持に結び付くのだろうか? いいかえるとオタクたちは票になることが可能なのだろうか。野村総研が数年前に日本のオタク人口を285万人で、市場規模を3000億円程度とした試算を公表したことがあった。もちろんオタクといってもその中身は多様であり、麻生外相が得意(?)とするコミックオタクは、同推計では20万人ほどである。外相がコミックオタクの利権に配慮する政策を打ち出しても、この程度の人数では一国の総理の座を得る上であまり成果は期待できないかもしれない。


もちろん先のニート擁護論に示された卓見―ニートの存在を許さない社会に発展はないーという主張は、オタクだけではなく広く若者層の理解を得ることができるだろう。オタクや若者層はあまり選挙に行かないだろうが、それでもマスメディアは外相のオタクフレンドリーな姿勢や若者への理解を積極的に話題にし、それが国民に好感されるかもしれない。“ローゼン閣下”の「とてつもない日本」戦略が功を奏するか、しばらく熱く注視していきたいものである。

I LOVE JAPAN [ 麻生太郎応援歌 ]

I LOVE JAPAN [ 麻生太郎応援歌 ]

なんじゃ、こりゃw ↑

 河上肇の亡霊w


 金曜は東京河上会で、現代の『貧乏物語』を。


 土曜は京阪経済学会で河上肇のやはり『貧乏物語』の気鋭の研究者の報告と紙面討論者の方々の話をお伺いする予定。できれば僕もなにかコメント作成するかも(とりあえず下に作りました)。


 http://www.econ.ryukoku.ac.jp/~komine/hope/keihan2.html


 たぶん後刻、econ-economeさんがほかの現代的な論点とともにまとめてくださると期待してますが(笑)、東京河上会での報告者方々のほぼ合意だった『貧乏物語』の読解と、上にリンクした京阪経済学会の報告者の読みの方向がまったく180度違うことがわかるだけに非常に興味深いです。

 このズレは何が原因なんでしょか?(笑)。まあ、それだけ『貧乏物語』がいまもいろんな視点で読むことができる古典の資格をもった数少ない日本の経済学書なのかもしれない。その点については僕もあとでここにできれば(いつものようにできないかもしれないけどw)アップしますが。


貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)

貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)


 しかし参加者少なかったけど、ある意味、異常に濃い参加者の方々だったのに気がついたオレ田中w (このブログをみて参加していただいた方は特に感謝したいですが)皆さんどうもありがとうございましたm( )m

 キム・ギドク本


 なんか中上健次みたいな人だ。これ日本語ではあまり聞くことができない深くかつ暴力的な言語だなあ。おそらく嫌悪を持つ人は即座にもつインタビュー集。僕はもちろん大好きですが(^^;)。


キム・ギドクの世界 ?野生もしくは贖罪の山羊?

キム・ギドクの世界 ?野生もしくは贖罪の山羊?

 貧乏物語関連コメント

牧野邦昭「開発経済学としての河上肇『貧乏物語』」コメント

田中秀臣上武大学ビジネス情報学部准教授)

 昨日(15日)に奇しくも東京河上会において、現代の『貧乏物語』をテーマにして、原田泰、岩田正美、橋本健二氏らとともに、河上の『貧乏物語』を導入に、今日の貧困問題について公開講演をしたばかりであり、そのこともあって本日の牧野氏の報告原稿も非常に興味深く拝読し、刺激を受けたことは率直な感想であった。
 同講演会に出席したメンバーは時論的な話題ではかなり立ち位置が異なるのだが、それでも現代の貧困問題についていくつかの共通理解が得られ、また『貧乏物語』の提起した視点が色あせていないことがわかったことは収穫であった。牧野報告に関連するところでいえば、東京河上会の私も含めて報告者全員の『貧乏物語』の共通した読解は以下の二点であった。

1 『貧乏物語』のテーマは、豊かな社会における貧困(貧困線以下の人々の状況)の問題であり、今日ではワーキングプアといわれる人たちの直面している問題である。

2 『貧乏物語』にはイギリスを中心にした欧州の経験が書かれ、日本の状況はまったくといっていいくらい登場しない。これはイギリスが豊かな社会における貧困を最も象徴的に物語ることができたために採用された河上の戦略であったのではないか。


というものである。1の論点をみれば、牧野論文の開発経済学的視点とは180度異なる視点であるといっていいだろう。また2は、本書が「貧乏研究」ではなくあくまでも「貧乏物語」という題名を採用していることに注意を促していることになる(従来の研究史では、この題名に注目した論者は皆無に近い。福田徳三が逆手にとって「文学詩」ほかの批判的形容に使用したぐらいである)。


 牧野論文でも注意が払われているように、河上は『貧乏物語』前後に多くの日本の経済問題について論説を公表している。それにもかかわらず『貧乏物語』には日本の貧乏の記述は皆無に近い。だが同時に、日本においても貧困(豊かさの中の貧困)が問題である、という認識はもっていたことも疑い得ない。したがって『貧乏物語』でのイギリスを中心とした貧困の記述と日本の事例の事実上の無視は、戦略的な事情で採用されたと類推できるだろう。


 ここで河上の欧州体験、特に『祖国を顧みて』での西洋社会への評価が参考になるだろう。同書では、西洋は(日本に比べて)格段に機械の発明に長じた物質文明の体現であった。イギリスはその物質文明の極限に位置している社会である。この繁栄の極地でもなお貧乏線以下の貧困が広汎に観察できることは、「物語」に劇的な効果を与え、日本社会への警鐘という啓蒙的な本書の性格をより強めることに寄与したに違いない。まさに『貧乏物語』とは研究書以前に、河上の警世の書なのである。また豊かさの中での貧困への処方箋は、奢侈・贅沢品の生産から生活必需品の生産に資源をより配分すべきだ、という資本家への倫理的な訴えであり、しかもこの訴え自体が経済学的基礎をもつようにはあまり思えない。


 『貧乏物語』には残念ながら私は牧野論文の指摘したような開発経済学的な側面が中心にあるようには読めなかった。しかし、『貧乏物語』以外において、イギリスよりも物質的文明の段階では劣る日本の経済社会のあり方が問題視されているのも河上の論説の特徴である。牧野論文的な開発経済学的視点が河上の著作の中に見出せる余地は大きいかもしれない。


 特に明治末期からのいわゆる「国民経済論争」には、河上の開発経済学的視点が全面にでている。この点については、当時の河上の論説を福田徳三と比較して、私は二回(上武大学紀要、東京河上会会報)論じる機会を得た(最新の方はいま書いている福田徳三の本に再録予定。次のブログのものはその一部http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070601#p3)。私の論説では、明治末期の河上の主張を、発展途上国の二部門経済モデル(都市型インフォーマルモデル)として描いている。都市型の貧困と農村の人口減少が当時の河上の問題であった。そして河上の処方箋は、短期的に農業を保護し、農業の生産性を高めることで、農業中心の農工商鼎立発展論を展開したといえるものである(なお、河上のこの立論は経済合理性を私の目からはもってはいない)。これはまだ十分に私も考え切っていない論点であるが、河上はこの明治末期の問題の構制を欧州体験後も保持していたのではないか、と思う。『祖国を顧みて』では、西洋の物質的文明とは異なる機械の発明の仕方が日本でも可能である、とする河上の発言もある。西洋の物質的文明とは異なる文明・経済のあり方として、河上の農業中心の農工商鼎立発展論が大正中期までも維持された可能性は否定できないのではないか?

 つまり本コメントの結論は『貧乏物語』に開発経済学的要素を読み込むのは難しい、しかし『貧乏物語』以外の河上の論説には彼独自の開発経済学的要素が中核にあり続けていた(のではないか)、ということである