トークセッション観覧記


 boxmanさんの名前間違えちゃったw スマソ。というわけでいってきました、ジュンク堂トークセッション。ITOKさんもきたよw。『パレスチナ』は原書、翻訳ともに途中で挫折してましたが、頑張り力(?)を発揮してなんとか大学で読破。そのまま怒涛の勢い??でトークセッションに。しかし四方田犬彦@可愛い論の「何でも見てやろう」的話術が、正直いって僕には余計な話に思えて、もっと小野耕世さんの今回の作品や、ジョー・サッコ氏の客観的な情報を聞きたかった。ほとんど何もいってないに等しいんだもの、後半。


パレスチナ

パレスチナ


 『パレスチナ』自体は前も書いたけれども読むのに一苦労。今日の話題になったある人がこの作品に下した「汚い」という「評価」は*1、これは文字がいっぱい+線が細密、ということであれば少しは理解できる。会場から質問してた人もいた(ただしお二人の回答はない)けれども、どんな読者層を想定して書かれたかがこの「文字一杯」という点に関連して僕も気になった。日本の文脈で申し訳ないが、『神聖喜劇』と『デスノート』はある意味で文字数だけみるとこの『パレスチナ』といい勝負だろう。『パレスチナ』自身は前者に近く、後者のように文章を読まなずに絵柄を追えばだいたい展開がわかる、というものではない。言い方をかえると、『神聖喜劇』や『パレスチナ』はかなりの文章読解力を要する漫画にあらざる要素にかなり支配されているといっていい。その要求されている読解力のレベルはかなり高いことも事実だろう。それに比べて『デスノート』の方が文章読解力に依存しないだけ市場性があるともいえる。『パレスチナ』はいい作品なのだが、むしろ自ら市場への経路を狭めているようにも思えた。格差コミックかw

 
 あとコミックジャーナリズムなんだけども、やはりこの分野が成立するには、この分野で食べてけるのかどうかがキーだと思うので、そこが非常に気になった。その意味でジョー・サッコが何して食べてるのかも気になった。


 ところで情報としては、『失われた時を求めて』の完全コミック化が進行してんだってw Stephane Heuetという人。現在、四巻まででてるぽい。英語訳もあるというので検索したらあった。即座に注文すw 

Remembrance of Things Past: Combray (Remembrance of Things Past (Graphic Novels))

Remembrance of Things Past: Combray (Remembrance of Things Past (Graphic Novels))


 あと小野先生が最近のアメコミの翻訳で『300』に感心せず、『ジミーコリガン』を絶賛したことに、僕の見立てと同じだったので妙にうれしかったw。

田中の感想
『300』:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070602#p2
『ジミーコリガン』:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20070516#p1


 そうそう『アドルフに告ぐ』ネタなんだけど、手塚の二元論的世界というのは、当時の新中間階層の世界観からみるのがいいんじゃないのか、と思ってます。日本的な近代的な善悪二元論(資本家と労働者、抑圧階級と被抑圧階級、正統と異端とか)とそれをネタ化する不安定な視点としての新中間階層の勃興、という観点ですね。クラカウアーの業績が参考になるでしょう。ここは旧ブログでも書いた手塚のドイツ文化的なるものとの関連でおさえてはどうか、と思ってる次第。

*1:四方田氏はこの評価を批判しまくってたが